屎(し)尿処理は業者に委託し市直営に切り換え(昭16)、手数料徴収の有料制に移行して以降、農事実行組合の自由汲み取りを廃止したが、回収した屎尿は施肥として農家渡しとし、補助金による腐熟・貯留のための貯留槽を増設した。しかし人口増加に追いつかなくなり、郊外に空き地を求め素堀の貯め池を作り(七カ所)貯留した。この処置は三十年の化学的浄化処理方式の北光処理場が完成するまで続行した。一方、馬車に頼っていた屎尿回収には、二十二年からトラックが導入され、二十六年には馬車五八台・自動車が一二台、二十七年には真空吸上ポンプ車三台を導入し、巡回汲取制を止め申込汲取制に替えた。桶を馬橇(ばそり)に積み回収する冬季の汲取馬車も、三十七年には完全に姿を消した。二十八年に建設に着手した北光処理場(道内初)が三十年に完成、三十二年に屎尿の衛生処理が三九パーセントとなったのに続き、雁来西処理場(昭36)、中沼化学処理場(昭38)、中沼北処理場(昭40)、雁来東処理場(昭41)、手稲処理場(昭41)が次々と竣工・稼働し、四十一年に屎尿の衛生処理が一〇〇パーセント可能となった。
水洗トイレは、四十二年に、屎尿を下水道へ投入する方法により開始された。同年四月に初の大規模「創成川下水処理場」が完成したことから、六月に屎尿のポンプ圧送方法の下水道投入が実施された。下水道普及率および水洗化率は、当初の計画が豊平町との合併により変更され、ともに二パーセント強に過ぎなかったが、四十六年に下水道五二・一パーセント、水洗化率七・七パーセントの普及となった。冬季五輪には大阪万博で使用した水洗式公衆便所を購入し備えた(昭45)。その後、屎尿圧送方式は定山渓下水処理場へ投入開始(昭46・9)、さらに白石ポンプ場・豊平川下水処理場(昭47・9)にも実施され、四十八年の段階で下水道普及率は六二・六パーセント、水洗化率が二五・五パーセントになっていた(さっぽろ清掃史)。