戦時中、旧制の実業系の諸学校は、戦争遂行のために商業学校が工業学校に転換されたり、軍需関係学科に転換されていた。これらは「転換学校」と言われるが、昭和二十年十一月二十八日に道は、「終戦ニ伴フ中等学校ノ措置ニ関スル件」を通達し、もとに復するよう指示した。札幌市では例えば光星工業がそれにあたり、すぐに光星商業に復した。また旧制中学校や高等女学校は修業年限が五年から四年に短縮されていたが、旧制中学校については二十一年二月段階でもとに復するように文部省が指示した。高等女学校の場合には特例があったために、五年制と四年制の二本立てとなった。市では、庁立札幌高等女学校のみが五年制になった(道新 昭21・4・2)。
二十二年三月十二日、道は四月からの新学制を直前にして、「学制改革ニ伴フ庁立中等学校ノ暫定措置」を決定した。これは「現在の庁立中等学校はすべて高等学校として維持運営する」(道新 昭22・3・18)方針であった。道は四月に北海道新学制実施準備協議会を結成し、各中等学校に移行整備を開始させた。二十二年度から文部省は「新制高等学校実施準備に関する件」といった様々な通達を出した。それらも参考にしつつ、新学制実施準備協議会は、二十三年三月十二日に「本道新制高等学校設置計画書」を道に答申した。道はこれを採用し、二十三年四月に新制高等学校が発足した。現札幌市域では、年度途中に設置されたものも含めて、一〇の公立の高等学校が設置された。
新制高等学校は、これまで様々な学校系統に分かれていた後期中等教育を統合する新しい学校であった。その特徴は、「高校三原則」といわれた総合制・小学区制・男女共学に加え、教科選択制と単位制であった。しかし暫定的な発足であり、旧制中学校などを転換しただけのものといわざるを得なかった。