すべての市町村に教育委員会を設置する期限は、昭和二十五年十一月までとされていた。その後猶予期間は二年延長されたが、その間にも自主的に教育委員会を設置する道内市町村はあらわれなかった。二十七年十月五日、全国一斉に教育委員会選挙が行われた。北海道にとっては三回目、札幌市や他の市町村にとってははじめての選挙であった。北海道・札幌市などは、それまでの選挙と同様、様々な啓発活動を行った。市教委立候補者は七人であったが、市民の意識はそれほど高いとはいえなかった。『道新』は社説において「教育委員会制度の運営にも幾多の疑義がある」「現在の民度に照らしてやむを得ない」としつつ「元来、教育は政治に先行するもっとも重要なものであるのだから、問題があればあるほど教育の発展向上のために、有権者は正しい一票の行使を怠るようなことがあつてはならないのである」と訴えている(昭27・10・5)。
結局、市教委選の投票率は三四・五三パーセントであった(道新 昭27・10・6)。当選者は飯田広太郎、錦戸善一郎、間淵豊、市岡勝で、議会側選出委員である大橋登吉とあわせて五人で構成された。なお飯田委員は三十年に死去したため、同年四月三十日に補欠選挙が行われた。立候補は二人で、投票率は六四・五二パーセントであり、戸田定信が当選した。なお、この補欠選挙のみ投票率が高い理由は、同時に市長選・市議選が行われたからである。しかし市教委選の投票率は市長選・市議選に比べて低かった。投票所に来ても、市教委選のみ「意味がわからない」として、投票しない者が出たのである(道新 昭30・5・1)。札幌市の周辺町村でも教育委員会が設置された。しかし町村教育委員会の基礎が貧弱で、行政的な対応にも困難がつきまとった。例えば琴似町・札幌村・篠路村では助役が教育長事務取扱を兼ねていた(山崎長吉 前掲書)。
札幌市は二十八年四月に、札幌の教育を推進するための教育行政方針を発表した。その内容は、「一、勤労精神の確立(4項目) 二、道義の高揚(6項目) 三、体位の向上(5項目)」であった。市はその後毎年、その年における教育の重点を掲げ、その推進にあたった(札幌の教育)。