新制高等学校は、そもそも希望者は全員入学できるようにする制度であったため、軍政部は選抜のための検査を行うことを否定した。全入はかなわなかったが、昭和二十三年に制度が始まった当初は、新制中学校からの報告書(知能検査と四教科の学力検査、教科学習成績など)によって入学者を選抜していた。二十五年度入試については、札幌市内の全日制普通科について、区域調整による総合選抜が行われたのは前述したとおりである。二十五年十一月に昭和二十六年度の公立高校選抜に関する道教委主催の第一回打合会において、民事部民間教育課のガスタフソンは「公立高校の入学者は、その通学区域内の各中学の在籍生徒の総数に比例して決定することを原則とし、従来のように入学選抜試験で入学の可否を決定しないようにすべきだ」という勧告をした(道新 昭25・11・5)。そのため二十六年度の選抜は、区域調整による総合選抜を行ったうえで、「募集定員の半数ないし、3分の2を成績順に上から選抜、残りを各中学校に割り当てる」(道新 昭26・3・24)ことにした。この際、定山渓鉄道沿線の一〇の中学校が突然区域変更になり、願書の受付もできないという混乱もあった。
二十六年五月十五日、道教委は「公立高等学校通学区域規則」を制定し、札幌学区は一市九町村となった。また二十七年度からの入試は、中学校において三年生全員に学力検査を行い、それを報告書に記載して高校側が選抜することになった。しかし二十九年度入試にむけて、高校側は高校による選抜試験を強く主張するようになった。道教委や中学校側はこれに強く反対し、結局、高校側が必要に応じて面接試験を実施することで妥協し、前年度どおりの入試となった。二十九年九月には文部省が「調査書と高校側の学力検査の二本建て」という通達を出したが、道教委はこれに反対し、三十年度入試はこれまでどおりの形で行われた。三十一年度へむけて道は「公立高等学校入学者選抜方法審議会」を設置したが、中学校側と高校側の対立は根強く、結論を得ずに解散となった。三十年末に高校側は道教委を相手取り、札幌地裁に訴訟を起こした。地裁は「行政庁自らが自律的に解決すべきもの」として訴訟を仮処分で却下し、高校側は訴えを取り下げた。三十一年度も中学校側による学力テストと調査書によって選抜された。
三十一年九月二十七日、文部省は学校教育法施行規則を一部改正し、高校の選抜方法を新たに規定し、志願者が定員を超過するか否かにかかわらず検査を行うこととし、その選抜は調査書と学力検査の成績によるとした。これをうけて道教委では、中学校側からの報告書と高校側の学力検査の二本建てによる選抜方法を示した通達を出した。三十二年度入試では、学力検査と報告書を同等にみる合否判定がなされた。以降、この方式は四十年度まで続いていく。