昭和三十年代になると、美術雑誌の創刊が相次いだ。三十三年七月一日に創刊された『北美』は、北海道美術家協議会の機関誌を兼ねたもので、北海道初の本格的な美術雑誌であった。刊行の中心となったなかがわ・つかさは、北海道の生活文化が中央依存的であることを指摘し、『北美』刊行のねらいは「地方独特の文化を自分たちの力で育成しようとするもの」で、「高度でしかも誰にでも読まれる雑誌を通して、一般にも共通する必要な問題を掲載し、ひろく道民生活の一助にも役立てたい」(美術史)としている。しかし、同協会の資金難から、創刊号一冊のみを刊行して終刊した。
この『北美』は、三十七年三月一日の『美術北海道』創刊へと繫(つな)がった。なかがわ・つかさは「札幌は、地方都市のなかで、もっとも美術の盛んなところだといわれ」、展覧会も多く、年々美術人口も広がっているにもかかわらず、「美術ジャーナリズムが一つも存在しないのは、むしろ不思議なくらい」であるとし、過去一〇年間取材報道を続けてきた「美術の全貌を、日日の歩みの一つ一つを、最も完全かつ普遍的な形で世論に供したい」と、美術北海道創刊の思いを語っている。この雑誌は七号まで発行した後、なかがわの他界により北海道美術ペンクラブに編集が引き継がれたものの、ペンクラブが契約したプロダクション・コーガの倒産によって、四十年に終刊となった。
同四十一年『美術北海道』を引き継ぐように、新たに『美術ペン』が創刊された。編集は北海道美術ペンクラブ、発行は大丸藤井株式会社であった。大丸には画廊もあり、画材も取り扱っていたことから美術には深いつながりがあった。そのため、『美術ペン』は大丸の善意で発行され、無料で配布された(美術史)。