この集団(札幌演劇集団)は各劇団が横のつながりを持ちながら、札幌の演劇運動を高め、全道的なつながりを持ち、全道アマチュア劇団の連絡協議会に発展させることを目的にしながら、遂に所期の目的を達成できず自然消滅した。札演協の発足は、この演劇集団の成し得なかった目的を再興させたい念願を込めたもの。
さらに三十四年には、新築成った札幌市民会館を会場として札幌市民劇場(後述)が始まる。五條はここで、演劇のみならずオペラ、音楽、舞踊など全体を統括する運営委員長を務め、公的調整役を担う。三十九年、本庄陸男作『石狩川』の演出を最後に、高血圧で倒れ、四十三年には半身不随、言語障害で、筆談もままならず、四十九年一月に亡くなった。
竹岡和田男は、当時の五條について「自分の劇団よりも札幌の劇団のまとめ役、あるいは札幌の各ジャンルのまとめ役として当時は存在していた」(さっぽろ文庫25 札幌の演劇)と記している。またさっぽろ芸術座から分かれて札幌小劇場を結成する結果となった菅井誠良は、五條の資質についてこう語る。
五條さんは演出家であるよりも俳優であった。北海道の演劇界における五條さんの格があまりにも高すぎたために、一演技者として仕事をする機会はほとんどなかったが、(中略)五條さんの本当の才能は俳優の道にあったし、その道を進むことが、おそらく生涯の念願だったにちがいない。「指導者」の重荷から解放してあげることのできなかったことを、(中略)いまさらながら申し訳なく思うのである。
(「演劇ノォト」)
このような五條の軌跡には、現在に通じる演劇の課題が余すことなく網羅されている。政治・思想と演劇表現、中央と地方、演劇の財政基盤、専門技術としての演技の方法論の確立と俳優育成の枠組、地方都市におけるプロとアマ、表現者、教育者、プロデューサーなど演劇にかかわる役割の専門性等々の諸問題は、戦後五十余年、新世紀を迎えてようやく、解決の緒についたばかりである。