この時期、映画界の活況とともに、映画ファンによる友の会や研究会といったサークルも多く結成されるようになる。このことに関しては、『札幌と映画』(さっぽろ文庫49)に詳しい。
戦前は、北大の映画好きの学生が集まって映画の批評誌を発刊したり、エンゼル館や美満寿館に映画友の会が作られたりといった活動が見られたが、いずれも長続きはしなかった。
戦後まもなくできたのは、二十二年、アメリカ映画の普及を目的とする「アメリカ文化協会」であった。これは当時道内各地に作られていたようで、その担当者であった山田昻の話では、それぞれの土地の有名人、文化人に試写を見てもらって、民主主義やアメリカン・ライフを啓蒙するためにアメリカ映画の日本配給機構であるセントラル(CMPE)が作ったものであった。しかし、この協会はセントラルの解散とともになくなる。同じ頃、北海道大学や札幌工業高校に映画研究会ができたほか、戦後多く結成された労働組合でも、文化部や青年部が中心となってサークルが結成されたようである。
二十四年には、淀川長治が編集長をしていた雑誌「映画の友」の友の会が結成された。学生や会社員等幅広い層の会員二〇人前後が常時集まって、毎月一回合評会や例会を行っていたが、映画雑誌「スクリーン」の創刊とともに次第に活動は下火となっていった。
三十年代に入ると、一六ミリ版が普及し始めたこともあって、自主上映を行うサークルも見られるようになった。三十八年の暮れに発足した「札幌勤労者映画協議会」(のちの札幌映画サークル)は、翌三十九年より自主上映を開始している。四十年からは「不良少年」「松川事件」といった問題作を取り上げてホール上映をするようになり、その後も回を重ねた。
四十二年、北大の学生街で「喫茶タマキ」を経営していた玉木佐和は、北大生とともに「札幌シネマテーク」を結成する。ほぼ毎月一回、道新ホールを会場に「自らの観たい映画を自らの手で上映する」シネマテーク運動の形がここに形成された。
前述したように、戦前、北大の映画好きの学生が集まって批評誌を発刊したことがあるが、この時の雑誌「エクラン」は四号で廃刊となったものの、三十年四月に復刊されることとなった。この年、「映画」「シネマ」「シネ・ポエム」の旧同人および北海道在住の映画批評家等によって「北海道映画ペンクラブ」(南1西5のち北3東3)が結成された。活動としては、映画の鑑賞会、批評会、講演会、展示会の開催および講師の派遣、映画教室の開催、シナリオ研究会等を行い、機関紙「えくらん」を月二回発行するとある(えくらん 創刊号)。また、「会員相互の親睦をはかり、文化的教養を豊かにし、精神生活の向上を図ることを目的」として「えくらん会」を結成した。その後、三十二年一月に「えくらん」は三二号で廃刊し、新しくタブロイド版の「映ペン」を創刊した。