戦後、全道的に文化サークル、団体が増加した。これは主に終戦直後に結成された労働組合の、文化部や文芸部といった職場文化サークルが多く作られたことが理由の一つと考えられる。とくに職場演劇が盛んとなり、二十三年から三十三年まで毎年北海道労働文化祭が開催された(本章第四節参照)。
北海道庁職員組合文化部では、文芸誌『赤煉瓦』を年四回発行するとともに、月三回ほどの講演会や座談会、読書会の充実、レコードコンサートの開催など、さまざまな事業を予定している(赤煉瓦 第一巻第一号)。札幌市交通事業所労働組合文化部では『愛輪』を発行、「殺風景なる職場に文化を入れて心のゆとりを得る」(愛輪 三号)という編集後記の言葉は、二十年代の多くの職場サークルの考えであったと思われる。
札幌の文化団体は、二十年代は文学や音楽、美術の団体が多い。二十八年の時点で札幌の文化団体は一五二、うち文学(詩、短歌、俳句を含む)が一番多くて二二、次いで美術が一七、音楽一〇となっている(道新 昭28・5・7)。これが三十五年になると、文学三〇、美術工芸二三、音楽(楽団)二〇、とそれぞれ増加している(芸術 文化 教育のしおり 昭35)。