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札幌護国神社から札幌彰徳神社へ

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 戦没者を英霊として祀る靖国神社や護国神社は、軍国主義・超国家主義を助長するものとみなされ、厳しい状況にさらされていた。これらの神社は新たに再生の道を模索していく。靖国神社はその特殊性から単立法人となったが、一般の護国神社は神社本庁に所属して存続することになった。
 札幌護国神社は、昭和二十一年四月三十日に神社本庁の承認をうけて宗教法人となった。ちょうどこの時、「敗戦八箇月半の間に人から忘れられたかのようにみえる」札幌護国神社を取材した記事は、
…戦時中は一日平均五、六百人の参詣人で賑わったというのに、この頃でせいぜい二十人ぐらい、…従ってお賽銭もかつては毎日百円程度あったものが、僅か五、六円に減り、ここばかりはインフレに逆行している。これまでは国費や地方費、市町村供進費などで年三万五千円も予算を貰っていたのがピタリと停まり、お賽銭箱があくびをしているのだから、神社経営も四苦八苦だ。

と、「神社経営」の苦難ぶりを伝えていた(道新 昭21・4・29)。このような札幌護国神社の経済的苦境を支援したのは、旧在郷軍人会である。戦争終結による武装解除にともない、財団法人帝国在郷軍人会札幌市聯合分会財団は二十一年八月に解散したが、財団の存続をはかって、十月には財団法人札幌護国神社維持財団が設立された。
 この頃、全国護国神社宮司の申し合わせにより、占領当局の風当たりを和らげようとして、社名を変更する護国神社が相次いだ。十二月十二日、札幌護国神社は、札幌彰徳神社と改め、戦没者だけでなく北海道の開拓功労者、一般功労者も合祀することとした。維持財団の改称は翌二十二年十月のことで、財団法人札幌彰徳会となり現在に至っている(札幌護国神社創祀百拾年史 以下護国神社百拾年史と略記)。
 二十二年七月、札幌彰徳神社として初めての例祭では、「本道開拓神三十六柱を含め十七、八年度の戦没者一二九〇柱」を合祀した(道新 昭22・7・5)。このときはまだ一般功労者を合祀するには至らず、二十六年の講和条約締結後に公葬禁止通牒(昭21)が緩和されると、殉職した警察官・消防士を合祀するようになる。殉職警察官の場合、昭和三十一年までには九五柱が祀られ、全道警察署長会議の開催に合わせて全道殉職警察官合同慰霊祭が営まれている(道新 昭31・10・23)。

写真-2 札幌護国神社の境内(昭34)

 ところで、二十年当時の札幌護国神社は参集所を建築中で、柱と梁が上がったところで敗戦をむかえた。十二月の神道指令は公的財政援助を禁止したため、参集所は屋根の工事にかかれないまま越年し、神社側は「このまま放置するならば、何の役にも立たずに倒壊する」ことを覚悟した。幸い、「コロンボ大学で東洋史の講師をした滝沢守吉が札幌駐屯のスイツァ大佐との間を取り持ち、建物は日米親善の施設に供して占領軍政に協力する」という合意がなされた。その結果、二十二年から参集所建築の募金活動を行い、二十四年にようやく竣工した(護国神社百拾年史)。
 参集所の工事に苦慮しながら、宗教法人としてどのような財政基盤を確立すべきか、その手だてが模索された。氏子総代会のだした結論は、「日本国開拓の祖神、延寿と縁結びの神と仰ぐ多賀大社の御分霊をお迎えして、英霊をおなぐさめしては」というものであった。すなわち、滋賀県犬上郡多賀村に鎮座する多賀神社(昭22大社と改称)の祭神、伊邪那岐・伊邪那美の二柱を奉斎して境内社とし、結婚式はもとより初宮参り、七五三などの人生儀礼、地鎮祭などの祭祀による収入をめざした。発案は、滋賀県出身者と思われるが、その実現にあたって、宮司は率先して私財を投げ出し、全役員は滋賀県友会や各流派謡曲会に協力をあおいで、建立基金の募集に奔走したという。
 境内社と参集所の工事は同時に進行し、二十四年九月二十八日に分霊を奉斎した多賀殿が造営され、奉賛団体多賀講も結成された。かくして、多賀殿と参集所は「昼は結婚式、夜は日米親善米語会話の会場として活用」することになった。米語会話は、二十六年の占領終了とともに姿を消すが、多賀殿は、後に市内の結婚式場へ分霊を奉斎して出張奉仕を行うようになる。一六坪の能舞台をもつ参集所は、落成直後の札幌宝生会有志による奉納謡会、翌年の観世友謡会による奉納謡会が行われ、以後毎年、謡曲会の定期的大会が開催されるようになる。ちなみに、多賀殿、参集所の屋根葺き工事にあたっては、戦前の国防婦人会・愛国婦人会の系譜に連なる女性たちが協力し、その過程で奉賛団体「ゆかり婦人会」が結成されている(護国神社百拾年史)。