真宗大谷派本願寺札幌別院では昭和二十二年八月二十四日に、北海道教区主催によって現如上人二十五回忌法要、北海道開拓功労者追悼法要と共に戦没者の追悼法要がなされていたが、戦争で多くの檀信徒を失った寺院では、遺族や各種団体と共催して戦没者の追悼が行われるようになる。
二十七年四月二十八日から講和条約の発効によって国、道は戦没者追悼式を催すようになった。各自治体でもなされるようになり、札幌市では六月十一日に戦没者追悼式を無宗教形式で開催していた。札幌村では七月二十七日に英霊一一〇柱をまつり、村内の法国寺、高恩寺、慧燈寺、大覚寺、龍雲寺の僧侶を招いた仏式で行われていた。市内の九二カ寺が加入していた札幌仏教会でも、九月二十六日に追弔法要を開き、真言宗北海道宗務所の主催による世界戦没者追弔会が、同月八日に開かれていた。
無量寿山常不軽寺(じょうふきょうじ)(旭ケ丘、単立)は、北部軍司令官であった樋口季一郎が、アリューシャン列島アッツ島で玉砕した将兵の慰霊と必勝祈願のために、十八年十二月に建立した寺院であった(昭24・8・26法人登記)。戦後は、ビルマ独立義勇軍司令官であった鈴木敬司が、ビルマで仏教団体から得た舎利を奉納し、あわせてビルマでの戦死者も合祀して慰霊を行っていた(札幌市史編集資料)。毎年、アッツ島での玉砕となった五月二十九日に慰霊法要を行っており、四十八年には「大東亜戦争諸霊位追善菩提」の石碑が建てられている。
アッツ島の遺骨収集では、戦死者に本道出身者の多いことから、東本願寺北海道教区会が二十七年七月に遺骨収集を会議で決議し、関係機関へはたらきかけをするなど中心となって運動していた。翌二十八年七月に遺族、宗教、政府関係者によって遺骨収集がなされ、二十九年に北海道宗教連盟がアッツ島遺骨慰霊祭を催している。