馬頭観世音信仰が普及したのは、祭礼執行の母体となる農事組合や荷馬車組合の成立とも関連している。真妙寺境内に安置されている富丘の馬頭観世音碑(明45建立)の祭りは、毎年春からの農作業が一段落する七月八日に執行され、今でも農事実行組合の人達が集まって祭りを催している。昔は今よりずっと盛大で、「素人角力や演芸、夜は戸外で映画」といった余興が行われていたらしく、同業者組合の支持を得ただけではなく、地域の氏神祭祀と同じように広く地域の人々の信仰を集めてきた様子が伺われる(手稲の今昔)。
また、馬頭観世音碑の台座には施主はじめ、地域住民の芳名を刻んだものも少なくないが、これなどは馬匹の供養をとおして先祖の開拓の労苦に感謝するという意味も込められていたようだ。このように牛馬の供養を直接の目的としない事例は他にもある。滝野の馬頭観世音碑は、建立当初は造材業が盛んであったことから、これを祭ったとされるが、昭和四十五年(一九七〇)に同地でゴルフ場建設が開始され、工事機材が不審火で焼けたり作業員の事故が発生するなど不可解な出来事が多発したため、付近の山林を調べたところ馬頭観世音が横転していたという。そこでこれを修復して祭り直したところ、不思議に事故はなくなったという。この馬頭観世音碑は近隣住民により毎年十月初旬にお祭りを行っている(みなみ区ふるさと小百科)。
馬頭観世音は、人々の暮らしと関係の深い馬をとおして、農耕や運搬に関わる信仰として受け継がれてきたが、新たな意味が付与され時代を越えて発展し続けている。