しかし、出身地を異にする人々の間にも地神信仰が普及したのには、農民共通の願望を叶えてくれる信仰の対象であったことや、社日(春分・秋分に最も近い戊(つちのえ)の日)に催される春秋の祭礼行事と一体化しながら受容された経緯があるものと思われる。北大第三農場の成墾記念碑の建立時(明治42・7・19)に祭りを行うようになったという農場内南組の「地神さん」は、大正十二年(一九二三)に同北組の地神さんと烈々布の祭神とともに烈々布神社に合祀された。この時催された祭礼には富山県出身者が持ち込んだ獅子舞が奉納されている(北大第三農場成墾記念碑保存会 昭53)。地神祭には酒、野菜、餅等の神饌物を捧げ、当番の人は煮しめなどを持ち寄って親睦を深めるとともに(北区エピソード史)、地神碑が神社の境内や集会所の傍らに安置されていることが多いことからも、地神の祭りは、地区の寄合いの機会でもあった。
このように地神碑は集落形成の過程で、出身地の異なる人々を地域社会に結びつける役割を果たしてきたのである。