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政令指定都市の出発

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 本巻ではおおむね札幌市が政令指定都市となり、区制がしかれた昭和四十七年(一九七二)から現在の平成の時期までをあつかう。ここでは本巻があつかう「現代の札幌」がどんな時代であり、どんな問題と課題をかかえて未来に向かおうとしているのかを、最初に概観と点描をしておくことにしたい。
 札幌市は昭和四十七年四月一日に、川崎市、福岡市と共に政令指定都市となり、新たな出発をした。二年前の四十五年十一月に、国勢調査人口が一〇一万一六人と人口一〇〇万人を超え、高らかに百万都市宣言をしていた。すでに当時の政令指定都市の要件をみたしていたのであるが、政令指定都市移行への準備はそれ以前からなされていた(第一章第一節参照)。移行にともない中央、北、東、白石、豊平、南、西の七区が設置された。ただ、中央、北、白石、西区の区役所庁舎は完成していたが、南区(庁舎完成 昭47・12・15)、豊平区(昭49・2・25)、東区(昭52・7・19)などのようにまだ未完成で、仮庁舎でスタートしたところもあった。市職員も四十八年には、一四〇〇人という大量採用を行っていた。
 札幌市はこの四十七年二月には、冬季オリンピックの開催を成功裡に終えており、また同年はちょうど、市制施行五〇周年にあたっていた(八月一日に記念式典)。札幌市にとって四十七年は色々な意味で節目となる年であった。この年は日本にとっても、五月に沖縄の本土復帰、九月に中国との国交正常化など永年の問題が解決され、「戦後」が清算される節目の年であった。
 札幌はオリンピックの成功、地下鉄の開通、幹線道路・高速道路の整備、地下街のオープンなど変わる街並と発展する姿の上に、政令指定都市という大都市への仲間入りをはたし、明るい雰囲気のもとでこの節目となる四十七年がスタートしたといってもよかった。続いて地下鉄東西線の認可、松坂屋、東急百貨店の進出などの明るいニュースも伝わっていた。しかし、四十八年になると物価・地価の高騰、公共料金の大幅な値上げからインフレは加速化し、第四次中東戦争を契機にした石油危機に至り、市民生活から市財政まで大きな混乱をきたすようになった。この時期は「交通ストライキ」も頻発していた。こうした経済や市民生活の混乱も、五十三年頃には落ち着きを取り戻すようになる。

写真-1 節電のために消えたススキノのネオン