札幌市長期総合計画第一次五年計画は総事業費三四〇〇億円で策定された。同計画は順調に進捗し、執行額は五年間で四五〇六億六〇〇〇万円、執行率は一三二・五パーセントとなった(十四期小史)。
しかし、日本経済は昭和四十四年ごろからインフレーションに見舞われ、特に四十八年十月の第一次オイルショックによってインフレは「狂乱物価」といわれるまでに進行した(日本経済 その成長と構造)。そのため、四十八年末の段階で早くも札幌市長期総合計画自体の見直しが求められるようになった。板垣市長は、同年十二月市議会第四回定例会でいまの計画のめざす都市像はそのまま踏襲するが、物的な豊かさから人間的な豊かさを追求するという考え方で、早急に審議会を設置し見直しを行う考えを示した(十四期小史)。
翌四十九年六月、札幌市長期総合計画審議会条例が改正され、市議、大学教授、関係行政機関・経済団体・文化団体・労組代表等四四名からなる新たな審議会が設置された。五十一年十一月に提出された答申『新札幌市長期総合計画書』は、前答申と同じく「北方圏の拠点都市」と「新しい時代に対応した生活都市」をめざす将来像とし、目標年次は昭和七十年においた。基本的課題として、①適正な都市規模への誘導と豊かな自然の中の都市づくり、②活発な都市活動を展開し、広域的な役割を果たす都市づくり、③市民一人ひとりの生活を基軸とした都市づくり、④快適な冬季生活を創造する都市づくり、⑤市民が主体となる都市づくり、の五点をあげた。
答申の特徴は、適正人口規模を一八〇~一八五万人に設定し、広域的な配慮のもとに可能なかぎり一八〇万人以下に市人口を誘導するとした点が第一にあげられる。また具体的な施策では前答申と重なるところが多いが、「都市問題の解決」と「市民福祉の向上」を「究極的な目的」とし、市民生活のあり方を第一においた叙述になっていることや、市民参加の推進を末尾に盛り込んだことも新しい点である。答申はいかに札幌市のこれ以上の過密化を防ぎ、「人間的な都市規模」へと誘導するかを課題として掲げたのである。