先に四選を果たした板垣武四市長は、後継者として第一助役の河崎和夫を第一候補に、第二助役の桂信雄を第二候補に意中においていた(思い出すまま)。しかし、河崎の私生活に関する悪評を書きたてる「怪文書」が市議などにばら撒かれたため(道新 昭61・12・23)、河崎に対して「拒否反応」(思い出すまま)が出され、保守側は次期候補者をめぐって分裂を生じた。対立を抱えたままでの選挙と新市長の前途の困難を板垣は憂慮していたが、助役退任後札幌都市開発公社社長に転じていた平瀬徹也の調整により、河崎は立候補を取りやめ、板垣は五選に臨むこととなった(思い出すまま)。
自民・公明・民社推薦の板垣の他に、札幌地区労推薦の田村正敏(学校法人理事)と共産推薦の中神凡夫(北海道高等学校職員センター付属教育研究所所長)が出馬した。社会党道本部は前回同様、知事選での横路再選を最大の目標とし、市長選では自主投票戦術を取ったが、田村は地区労の推薦を取り付け、勝手連ブームの再現を目指した。
六十二年四月十二日の選挙の結果は、板垣五一万六八八三票、田村一六万九四五九票、中神八万二五九二票となり、板垣が今回も大差で当選した。当選後のインタビューで板垣は、目標とした六一万票に大きく届かなかったことから、「多選批判票がどのくらいになるのか、うれしさも中ぐらいなり」と心境を述べた(道新 昭62・4・13夕)。