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地下鉄の新路線の開業

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 昭和四十一年(一九六六)八月、札幌市高速軌道等調査専門委員規則を制定して、一二人の学識経験者を委員に委嘱して高速電車の整備について調査研究を行った。そして四十二年七月「札幌市における高速軌道整備計画に関する報告」が答申された。それによると、東西線として琴似の勤労者団地~厚別間約二〇キロメートルと南北線として茨戸~藤の沢間約二五キロメートルの都心で交差する路線が想定されていた(概要 昭53)。その第一順位として地下鉄南北線が四十六年十二月に開通した。四十六年の札幌市長期総合計画では、建設中の南北線では乗客増に不足であるとして、路線延長と新路線の必要性を指摘した。そして、副都心的商業業務地、流通業務団地、大規模住宅団地、業務施設等と都心圏を連携し、高密度な住宅地域を通過すること、他系統への乗り換えを一回とし、混雑緩和のため乗り換え地点を分散することを要件として路線を選定した。そして高速一号線(南北線)として花畔地区(ばんなぐろちく)~藤の沢地区間約二九キロメートル、高速二号線(東西線)として下野幌地区~発寒地区間約二〇キロメートル、第三号線(第二南北線)として元町地区~山鼻地区間約一一キロメートルを建設することを構想として示した(長総)。
 第二順位として南北線と大通で交差する地下鉄東西線の白石~琴似間一〇・四キロメートルの建設が、四十七年五月運輸大臣の免許をえた(概要 昭48)。四十八年四月から工事を開始し、五十一年六月十日開業した(概要 昭49、52)。それ以前に開業していた地下鉄南北線では、大通~北二四条間の利用者が全体の七割を占め、同区間の朝夕のラッシュ時は乗車効率が二〇〇パーセント以上となっていた。そのため、バスからの乗り継ぎを含め北二四条以北の乗客増に対処し、北二四条駅混雑の分散・解消などを目的として、南北線の北方向への延長を計画し、四十八年五月に運輸大臣の免許を受けた。四十九年六月二十九日南北線延長の北二四条~麻生間二・四キロメートルが着工し、五十三年三月十六日開業した(概要 昭50、54)。
 五十一年の新札幌市長期総合計画では、市街地の発展動向や土地利用計画との整合性に配慮した新たな路線を計画する必要性を示した。そして新長期総合計画に基づいた厚別副都心の開発やその後背地の東部開発の進行による乗客増に対処するため、東西線の東方向への延長を計画し、五十三年五月運輸大臣の免許を受けた。東西線延長の白石~厚別(新札幌)間七・三キロメートルが、五十三年十一月六日着工し、五十七年三月二十一日開業した(概要 昭54、58)。
 公共輸送機関の整備を主眼として、総合交通体系の確立のために、市長の諮問機関として札幌市総合交通対策調査審議会が、五十四年五月に開催された。将来の地下鉄路線網についての検討を行い、十二月に「地下鉄等の大量公共輸送機関の整備について」の答申が出された。南北線(麻生~真駒内間約一四キロメートル)、東西線(手稲東~厚別間約二〇キロメートル)、東豊線(栄町~北野間約一六キロメートル)の合計五〇キロメートルを七十年までに整備計画路線とし、札幌市もそれを基本方針とした(札幌市総合交通対策調査審議会 地下鉄等の大量公共輸送機関の整備について(答申)昭54・12・24、十七期小史)。その答申に基づき、緊急に整備すべきであると判断された北東部の栄町~すすきの間の建設について、五十七年一月運輸大臣の免許を受けた。この東豊線の栄町~豊水すすきの間は、五十八年七月二十七日着工し、六十三年十二月二日開業した(概要 昭57、平1)。
 五十八年十月残りの未整備区間である東西線琴似~手稲東地区間と東豊線豊水すすきの~北野地区間について、学識経験者など一二人に都市高速鉄道調査専門委員を委嘱した。六十年八月「望ましい地下鉄の在り方」としてルートと駅位置などが報告された(概要 昭61)。東豊線延長の豊水すすきの~福住間五・六キロメートルが、平成二年(一九九〇)一月八日着工し、六年十月十四日開業した。残る計画路線は、東西線の延長(琴似~手稲東間)と東豊線の延長(福住~北野間)となり、同時着工を目指したが、交通局の赤字問題などで東西線延長を優先とした(道新 平3・7・19)。七年二月二十三日東西線延長の琴似~宮の沢間二・八キロメートルが着工し、十一年二月二十五日開業した(概要 平11)。この開通により、整備計画五〇キロメートルの九六パーセントにあたる三路線四八キロメートルの整備を完了した(概要 平15)。