明治二十九年(一八九六)創立の山藤印刷は、市内に分散する工場を集約すべく昭和四十一年に宮の沢に土地を購入し、翌年「手稲工場」として完成させた。山藤印刷は、最新のオフセット輪転機を次々と導入し、量産体制を強化していった。たとえば四十七年に導入した日立精工製オフセット輪転機は、B5判三二頁が一度に印刷できる新鋭機であった。また、六十一年、通産省による官庁書類、刊行物のA判化の指導に対応して、六十三年には三菱リソピアオフセット輪転機を導入し、A判系列の印刷に備え、平成五年にはA4判化した『広報さっぽろ』の受注に成功している。オフセット輪転機五台体制は、道内印刷工場では随一だという(山藤印刷株式会社 印刷の道一〇〇年 平11)。
大正十二年(一九二三)創立の須田写真製版所は、昭和四十年に(株)須田製版と社名を変更した。山藤印刷が手稲工場に集約することにより空いた琴似工場(二十四軒)を買い取り、四十二年に須田製版本社工場とした。須田製版は、写真製版を得意とし、百貨店等のチラシ印刷が受注額の四〇パーセントをしめるという。二十四軒の本社工場にもさっそく四色グラビア印刷輪転機を導入している。さらに、四十八年に浜田B半裁サテライト八色オフセット輪転機を導入し、生活協同組合市民生協のチラシ受注を継続して行うようになり、市民生協本部の近隣にアドセンターを開設し対応した。バブル崩壊後には印刷物のパイは限られ、従来の受注型から需要創造型への転換が図られた。そこで平成五年にはクリエイティブ・プランニング・センター(CPC)を新設し、得意先とともに企画・提案するスタイルを試みた。六年には本社工場隣接地に第二工場を新築、三菱リソピアオフセット輪転機を導入し、A判化に対応するとともに『じゃらん』、『DoDA』の受注に成功している。雑誌の受注にともない製本工程をも内製化する方針をとり、九年に第三工場を新築し、地下を製本ラインとし、デジタル化により過剰となった人員で製本工程を担当している(須田製版 創業八十周年記念誌 平15)。
昭和四十一年設立の共同印刷は、名簿、年鑑などの印刷を得意分野としており、五十八年にはパンフレット、カタログなどカラー印刷専門の田上印刷を系列化し、平成五年に合併、(株)アイワードとなった(日本経済新聞社 北海道の中堅170社 平3)。六年には業績不振に陥っていた興国印刷の発行済み株式の過半数を譲り受け、同社を傘下におさめている(道新 平6・4・9)。昭和六十年に文字情報処理システムを自社開発し、東京商工リサーチの『東商信用録』の印刷をも手がけている(日本経済新聞社 北海道の中堅170社 平3)。平成十一年には売上高にしめる道外の割合が五割を超えたほどである。同年から石狩湾新港に新設した工場が稼働している(日本経済新聞社 北海道の躍進企業―新世紀を担う100社― 平12)。