昭和五十八年(一九八三)に刊行された『北海道山林史戦後編』は、戦後の北海道林業の展開過程を、森林伐採量と人工造林面積など林業生産活動の状況を指標として、次の四つの時期に区分している。
第二次世界大戦が終わった二十年から二十六年までを戦後第一期の復興期とする。わが国の経済は長い戦争と戦災のために壊滅に近い打撃を受け、従って激しいインフレーションと失業、さらに食糧危機がこの時期を象徴する。このような中で、連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策の下で一連の民主化政策が打ち出され、経済の復興も強力に推進された。
林業の面で見ると、森林の戦時荒廃を復旧することがまず第一に主目的とされ、国土緑化運動がいち早く始められ、造林、林道、治山の各事業が公共事業の一部として取り上げられて補助金行政の体系が確立されるなど、その後の林業生産活動の基礎が与えられた時期である。日本経済の復興とともに、国内市場の拡大に支えられて木材需要も次第に増加し、特に朝鮮特需は価格上昇と森林伐採量の増加をもたらし、その後の超過伐採の出発点となった。北海道林業においても、森林伐採量は戦前水準を急速に回復して標準伐採量を超過する事態が継続し、人工造林はこの時期の後期に民有林を中心にして急速に拡大した。
対日講和条約が発効し、ようやく戦後体制を確立した二十七年から、国内市場の拡大と国際経済への参入を経て、高度成長に達した四十一年頃までを第二期の発展期とする。
林業の面で見ると、木材の需要は前期に引き続いて今期も増大を続け、供給との間に激しいギャップを生じて木材価格が高騰した。国の助成策と相まって林業生産活動は順調に発展し、戦後における年間実績のピークはこの時期中に実現した。全国でみると森林伐採量のピークは二十九年と三十六年にあり、北海道だけをみると森林伐採量は三十六年と四十一年に、人工造林面積は四十四年である。
伐採による供給は次第に頭打ちとなり、全国では三十五年を境にして外材輸入量が急増して外材時代に入った。北海道では、外材比率はまだあまり大きくはなく、なお木材自給圏を維持していた。また、この期の前半までに造林未済地はほぼ解消し、広葉樹から針葉樹への林種転換による拡大造林の時代に移るなど、北海道の林業生産活動はなお次の転換期まで引き続いて拡大した。
日本経済が、一定の高度成長を果たして本格的に国際経済に参入した四十二年から、輸出主導によって一層の成長を成し遂げた四十八年までを第三期の転換期とする。
林業の面からみると、引き続く高度成長の中で、木材需要は拡大を続けて四十八年に戦後のピークに達するが、林業生産活動は需要の拡大の中で、むしろもっと早くから縮小に転じている。全国では森林伐採量も人工造林面積も前期の三十六年にピークを示し、以後その規模を縮小してこの期ではそのテンポを速めている。木材の供給は外材に依存することになり、林産業は外材を軸にして展開した。原料を海外に求め、製品はほとんど国内市場を対象とする点が林産業の特徴となった。北海道では木材需要のピークは全国と同じく四十八年であるが、林業生産活動の縮小は全国よりやや遅く始まり、森林伐採量は四十一年、人工造林面積は四十四年をピークとして以後縮小する。四十八年には外材比率がかなりの比重を占めるに至り、木材の自給圏は崩壊したといってよい。全国でも北海道でもその後の需要減退が林業生産活動をさらに引き下げていった。
四十八年のオイルショックのあと、日本経済は高度成長から一転して低成長に移行し、世界的な不況と為替相場の激しい変動の中で、戦後最も長い不況を経験することになった。赤字国債、財政再建、減量経営、行政改革などがこの時期を象徴する。
林業の面からみると、木材需要はオイルショック以後横ばいを続け、森林伐採量と人工造林面積は急激に減少して林業生産活動は戦後最低となった。国有林の経営はますます悪化し、五十三年には改善計画を樹立して事業規模を一層縮小することになった。林産業もまた著しい不況に悩まされた。国内林業生産の縮小と対照的に森林の公共的機能が強力にクローズアップされていく。こうして、このあと長く続く第四期の停滞期がスタートした。