昭和四十八年度以降、鉱山街は大きな変貌を遂げた。それは定住者の急激な減少となってあらわれたが、まず諸施設等の新増設整備状況の流れについて見てみよう。
鉱山設備の新設拡張としては、五十六年度の貯鉱舎増設、六十二年度のディーゼル発電設備新設、平成八年度の坑外機修場建設等があげられる。福利施設面では、昭和四十九年度のテレビ共同受信設備新設、五十三年度の本山駐在所・南区役所本山出張所廃止、豊羽電話交換局開局、五十五年度の旭が丘ストア新店舗・本山スキー場リフト完成、五十六年度の屋内運動場落成等がある。また五十五年度には豊羽小中学校新校舎が総工費一〇億円を要して新築落成している。
四十九年四月には豊羽鉱山専用バスの地下鉄真駒内駅前への乗り入れが実現したり、おりからのマイカー時代到来と相俟って五十九年八月には一三年越しの道道京極定山渓線の舗装工事が完成、その後は除雪整備や市道砥山豊平川沿線拡張整備が進むなど、本山への交通事情が抜本的に好転した。しかし、そのために本山に定住する人は激減し、会社による住居の市街地移転も慫慂(しょうよう)されて、戦前の最高時は約五〇〇〇人、戦後は約二〇〇〇人にのぼった人口は、平成八年十月末一三五人、十六年五月現在では三六人(アパート二三人、寮一三人)となっている。
定住人口の減少とともに、街を街らしくしていた諸施設も次々と閉鎖されていった。旭が丘ストアは九年十月に閉店し、十一年四月には、社宅は中央アパート(一〇世帯)と独身寮二棟(三〇人)を残すのみでほかは廃屋状態となった(道新 平11・4・10)。また豊羽小中学校は、ピーク時(昭和四十年度)四九三人いた生徒が平成十三年度には四人(小学校一人、中学校三人)にまで激減し、皮肉にも同年度中に設立五〇周年式と閉校式が行われている。すなわち設立五〇周年式は平成十三年十一月に、閉校式は翌年三月三十日に行われ、昭和二十六年以来、半世紀の歴史に幕が下ろされたのである(札幌市立豊羽小中学校 雪と緑のなかに育って 昭55・10。道新 平14・2・1、3・31)。
このほかスキー場は平成五年のシーズンいっぱいで閉鎖されている。また無意根山への登山客や豊羽鉱山の工事関係者の宿泊施設として昭和四十年二月に建てられ、同五十年前後の年間宿泊者が約二五〇〇人にのぼった札幌市無意根山荘は、マイカーの普及に連れて宿泊者が二〇〇人台にまで落ち込み、管理人の引退と同時に平成十二年三月いっぱいで休業している(道新 平12・3・24)。