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石油危機と金融の自由化・国際化

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 昭和四十八年(一九七三)は、前年六月以来の「金融超緩和」(公定歩合四・二五パーセント、道新 昭48・4・28など)の下、民間設備投資や個人消費等が活発となり、例えば鉄鋼分野では「どこかに鉄を食う怪獣がいるのではないか」といわれるほど需要が旺盛で、また個人消費分野では「高い物から先に売れ、安い物ほど売れ残る」といわれるほど「デパートは超好況」となった(道新 昭48・8・8、9)。このような景気過熱に対し、日銀は同年四月以降、相次いで公定歩合を引き上げ、十二月には九パーセントになった。この間、十月に中東で戦争が勃発し、いわゆる第一次石油危機が発生した。わが国では「狂乱物価」が現出し、同年度の経済成長率(実質GDP)は戦後初のマイナス(マイナス〇・二パーセント)となった。五十三年十二月には第二次石油危機が生じた。しかし前回の学習効果もあって、わが国では大幅な国際収支赤字が発生したものの物価上昇は前回ほどではなく、また経済成長率もその後、プラス三~五パーセントを維持し、いわば安定成長が特徴となった(経済企画庁 国民経済計算年報、日銀 経済統計年報)。
 この間の政府による不況対策は国債によって賄われ、五十年度に特例(赤字)公債の発行が認められると、その後は急激に増大し、国債大量発行時代へと突入していった。大量の国債は財政危機につながるものではあるが、その半面、必然的に債券市場を育成し、金利の自由化など金融革新の原動力の一つともなった。五十四年五月の譲渡性預金(CD)の登場(預金金利の自由化の端緒)、五十七年四月の新銀行法施行(銀行の証券業務への参入認可)、五十九年五月の「日米円・ドル委員会」報告書の発表(円の国際化)など金融の自由化・国際化に大きく足を踏みだしたのも、この間の特徴であった。