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中央卸売市場の動向

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 昭和四十年の札幌市の人口を五八万人と推定して開設された中央卸売市場は、その後の人口増加が予想を大きく上まわったため取扱量が急増し、場内が手狭となり、四十年代には早くも抜本的な整備を必要とするに至った(道新 昭40・9・28)。実際に中央卸売市場取扱状況をみても、表20が示すとおり、少なくとも五十年代なかばまでは青果物、水産物ともに取扱量が急激な伸びを示している。これについては札幌市内だけでなく地方、すなわち余市、小樽、室蘭、苫小牧、芦別、赤平、旭川、留萌などへ分荷される貨物が増加したことも原因の一つとされ(道新 昭39・7・14)、これらの地域にある地方市場は平均三七パーセントの魚を中央卸売市場に依存していた(札幌中央卸売市場二十五年史・水産編 昭61)。そのため施設拡張の場合、出荷圏を札幌市内に止めることを前提に計画を建てるか、また札幌以外の市町村を加えるなら、その財源を国や道に求めるべきであるといった意見も登場した。また四十一年には当時行われていた鮮魚先取り制が問題となった。これは札幌に集まった魚のうち鮮度の高いものを先に抜き取って地方に送り、その価格は中央卸売市場のセリでつけられた魚の最高額で取り引きするという制度であり、品不足の時には高値をあおり品質の悪いときにはよい値がでず、札幌で鮮度の高い魚が取り引きできないことなど多くの問題点があった。このため同年四月からこの制度を廃止することとしたが、道市場協会や中央卸売市場の仲買業者からの要望でいったんは廃止は見送られ、同一荷主、同一品目、同一等級の魚については上場予定量の五〇パーセントまで先取りできたのを三〇パーセント以内にとどめ、数荷でも先取りを認めていたのを一〇荷以上とするなど徐々に先取り量を減らし、全廃をめざすこととなった。
表-20 中央卸売市場取扱状況
青果物
(トン)
金額
(百万円)
水産物
(トン)
金額
(百万円)
昭4098,6765,44964,0699,363
 45151,36511,774111,00927,751
 50199,75026,557142,84581,191
 55292,91148,026155,160122,528
 60303,38953,154150,187122,936
平 2326,35967,752157,651152,152
  7318,58468,271173,814151,510
 12325,82560,748194,003164,432
『札幌市統計書』による

 また施設や取り引き方法の問題だけでなく、四十年代前半の中央卸売市場は①札幌の野菜の値段が高いこと、②赤字の累積、③青果物仲買業者二社が倒産し、この結果札幌青果物精算会社への支払いの焦げ付きが発覚し精算制度の改善が必要となったこと、④円山朝市内の内紛に端を発した場外市場問題、⑤青果部卸売業者の複数化など多くの課題を抱えていた。そのため市は本州方面の産地に出荷懇請班を派遣して道内出荷を働きかけ、赤字に関しては全国一高いといわれた市場使用料をさらに値上げするなどの措置がとられた(道新 昭41・9・17)。また五十年にはより開放的な市場運営を図るとして、青果物部では全面売買参加者制度を、水産物部では限定売買参加者制度を実施し、五十一年五月には青果部卸売業者の複数化を実施した。
 一方施設の拡充に関しては、四十二年から四十六年までの五カ年計画で総額二三億円で施設整備を行い、四十八年には水産本館、五十一年には青果本館を増築し、開設当初の二倍の規模になった。また将来の取扱量の増大を見越し、四十七年には豊平川以東一円を供給区域とする東部市場の建設計画がたてられ、当初は大谷地流通業務団地内に土地を取得し五十三年度開設を目指したが、その後オイルショックや「二百カイリ」問題による水産物取扱高の減少などで五十五年度、五十七年度と開設時期が延期され(道新 昭54・11・4)、また表20にもみられるように五十年代後半取扱量が伸びないこと、予想人口の伸びの鈍化、景気低迷による消費の伸び悩みなどもあって、結局五十八年開設が凍結された(道新 昭58・10・5)。