翌九年二月三日新オーナーの山崎種三が社主に就任するが、オーナーと生え抜き役員らの再建構想は大きく隔たったうえに、オーナーの休刊宣言や生え抜き役員の解任(平10・6・28)など強引な手法は社内からの強い反発を招いた。またこうした内部対立は読者や取引先からの信用までも損ね、さらには深刻な不況という足かせも加わって、再建を一段と難しいものにした。
後任の三原克巳社長はスポンサー探しに奔走するがめどは立たず、一方で彼は山崎オーナーの腹心だったことから、生え抜き役員側との確執が解消されず、彼もまた辞意を表明する(道新 平10・8・31夕)。
後任の社長は空席のまま、伊藤弘毅・菊地亮二両専務が代表取締役としてスポンサー探しを続けるが、十年九月一日ついに同社は札幌地裁に自己破産を申請して倒産した。ピーク時の昭和四十二年に二一万四〇〇〇部だった発行部数は、倒産時には朝刊のみの五万部強にまで減少しており、負債総額は二八億円強、『北海タイムス』は二日付紙面の第一万八七八六号を最後に事実上の廃刊となった(道新 平10・9・2)。
一面には「北海タイムスの理念、理想を承継していく新聞があってほしいという願いから」(伊藤専務談)、「きょうで休刊します」との社告を掲載し、昭和二十一年八月三日の創刊から数えて五二年余の歴史に幕を閉じた。
写真-3 『北海タイムス』の休刊を告げる紙面(タイムス 平10.9.2)