『札幌ベンチャーランド・エレクトロニクスセンター建設概要』(札幌市 昭60)によると、ベンチャーランド構想とは次のような内容であった。事業の目的は「先端技術として波及効果の大きいエレクトロニクス産業の振興を進め、その活力と先端技術の応用力をもって既存中小企業の技術力強化を図り、もって産業構造の高度化を促進するため」として、エレクトロニクス(電子技術)関連企業の立地集積地となる札幌ベンチャーランドと、その中核としてエレクトロニクスセンターを建設する。
センターには研究開発、技術指導研修、情報提供、各種交流、共同事業の支援等の機能を持たせ、センターおよびベンチャーランドの管理運営は(財)札幌エレクトロニクスセンター(昭62・5発足)が行った。
センターと分譲地に立地する各企業間と、各企業と東京の発注元のコンピュータは、光ファイバーによるLANシステムで結ばれたが、異なる企業間での、しかもビル外まで拡張されたLANシステムの導入は国内初めてであった(北の技術'85 札幌商工会議所)。
仮称とされていた札幌ベンチャーランドは六十一年三月札幌テクノパークと決定し、白石(現厚別)区内の野幌森林公園に隣接する豊かな自然を背景とする地区に造成された。広さは約一二ヘクタール、分譲用地は全体面積の三七・八パーセントにあたる約四・七ヘクタール、企業の立地には地元企業が優先された。
札幌テクノパークは、ベンチャー企業が集まる本格的な工業団地としては国内初の試みであったことから、本州企業からの問い合わせが相次ぎ(道新 昭60・6・28)、パークへの進出を決めた第一号は、コンピュータメーカー大手の富士通(本社・川崎)であった(道新 昭61・4・29)。分譲開始から約半年で二〇区画は完売、内訳は本州企業二、道内企業一、札幌企業一五と学校法人一の合計一九であった(道新 昭61・12・17)。テクノパークは六十一年十二月二十二日オープンし(道新 昭61・10・22)、エレクトロニクスセンターは翌六十二年六月から本格的に始動することになった(道新 昭62・4・8)。