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北本連系構想とその実現

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 北電の設立当初からの課題の一つに、契約者に対する電力の安定供給という問題がある。東北電力などの本州他社と比較して北電の電力供給面積は広大であり、しかも需要者が分散しているため送電線等の設備投資が嵩むという問題があった。この点について、北海道電力『北海道電力の現状と課題』(昭54・9)は、「北海道は本州などの他地域と比較しますと、一平方キロメートル当りの販売電力量は他地域の八分の一程度ですし、電柱一本当りの需要家数は他地域で四軒であるのに対し本道は半分の二軒に過ぎません。また一軒のお客様に電気をお届けするのに他地域では五〇メートルの電線ですみますが、本道では八〇メートルと長い電線を必要とするなど、需要密度が希薄なため事業規模の割には多数の設備と費用がかかります」と指摘し、北電にとっては、経営面での合理化・効率化が課題であると指摘している。さらに北電自体も電力系統が独立しているため、昭和三十年代に電力広域運営体制が実現した本州他社に比べて約二倍にあたる一五パーセントの供給予備電力を保つ必要があった。
 このような状況を改めて全国一貫の電力広域運営体制の実現を探るために、四十三年、北海道開発庁と通産省が共同して北海道・本州連系基本問題調査委員会が設立され、三カ年計画で検討に入った。これを受けて電力業界も、同年九月に北電と東北電力・東京電力及び電源開発の四社で東地域電力協議会・東地域電源調整会議を発足させ、その下部機構として北海道・本州間電力計画特別委員会を設けた。そして四十六年二月、直流電力による室蘭地区から亀田半島・津軽海峡・下北半島を経て八戸地区に至る約三八〇キロメートルの「北海道・本州間電力連系構想」が東地域電力協議会から公表された。
 しかし、四十八年の石油危機などによってこの計画は北海道・七重町から青森県・上北地区までの一七一キロメートルに変更され、五十四年十二月、第一期分工事が完成して一五万キロワットの運用が開始された。翌五十五年六月には第二期分の運用開始によって送電容量は三〇万キロワットになり、平成五年三月からは二回線・六〇万キロワットに増強された。これによって北電の供給予備率は他社並みの七パーセントに抑えられ、また北電と他社との電力の相互応援が可能となったのである。
 この構想の意図は、当時の北電が、「本州との送電連係がないため、技術交流や資材の融通などが主であるが、本州との送電連係が完成すれば事故時の相互融通など設備面を含めた広域運営が可能である」(北電 第五十二期有価証券報告書 昭和五十一年下期)と述べているように、道外から道内への電力の緊急融通体制を整備するという点にあった。しかし、実際に運用が始まってみると別の効果が生じることとなった。それは、本州他社の余っている〝安い電気〟を送ってもらうことで、北電自身の燃料費節減に役立っているということだった(道新 昭55・10・23)。昭和五十五年の北本連系の運用開始から五十七年九月末までのデータでみると、本州から北海道への送電実績(「北流」)は三五〇三時間・二億七九〇〇万キロワット、逆に北電から本州側への「南流」は一六四九時間・九五〇〇万キロワットとなっており、送電比率は北海道側の受電が圧倒的に多かった。だが、このような状況はまもなく逆転し、五十七年四月から九月までの間では南流と北流はほぼ同量となり、十月以降になると南流が北流を上回るようになった。これは、北電伊達・厚真の両火力発電所が順調に稼動するようになり、本州方面で低コストの「道産電力」に対する需要が高まったためである(道新 昭57・10・26)。
 この状況はその後も続いた。平成二年の夏には、東京電力が電力供給危機に陥ったため、北電の東電に対する電力融通は冬季になっても衰えず、年度合計では前年度より一五パーセント近くも増加する見通しであり、これは昭和六十三年と比べると倍増する勢いであった(道新 平2・12・22)。このようにして北電は、本州に対する電力供給基地としての側面を強めていった。北電の電灯電力の総合単価は東京電力より約二〇パーセントも高く、このことから、「現時点の融通態勢は、電気を高く売っている北電が、安く売っている東電の供給体制をバックアップするという構図になっている。融通電力は余裕分で、火力や水力など発電コストを計算し、電力会社同士で売買しているが、消費者側から見れば融通量が多い北電の電気が本州の電力会社に卸売りされ、結果的には、道内より安値で販売されているという見方も成り立つ」(道新 平5・2・3)と言われる所以である。