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行政改革の急展開と運動の流動化

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 春闘史上初めてのストなし春闘となった昭和五十七年(一九八二)の七月、政府の第二臨調(第二次臨時行政調査会)が、国鉄分割民営化など三公社の抜本改革を求める基本答申を提出し、大規模な行政改革論議が本格化した。国鉄当局による「ヤミ手当」廃止・現場協議制見直しなど合理化提案も相次ぎ、さらに政府は九月、公共企業体等の一時金切り下げや国家公務員給与に関する人事院勧告の実施見送りを決定し、地方公務員給与についても、全国自治体に対し各人事委員会勧告の実施凍結を通達した。五十七年十二月、中央では民間先行の労働統一戦線を目指し、四一単産により全民労協(後述)が結成された。官公労組合は行政改革の大波に直面して危機感を深め、人勧見送りの閣議決定直前の九月、公務員共闘が二時間ストを実施したほか、道公務員共闘会議や道地方公務員四者共闘は、道人勧実施凍結に反発し十二月から翌年二月まで時限ストを数次にわたり実施した(資料北海道労働運動史)。札幌市労連も人勧実施凍結反対などで独自単独時限ストを組織し、五十七年十二月の第二波早朝一時間ストでは、地下鉄大通駅で男性の飛び込み自殺が重なり大混乱となったが(道新 昭57・12・22夕)、市職員のベースアップも政府の圧力により凍結され、公共企業体の一時金も切り下げられた。
 民間でも企業閉鎖や合理化に伴う紛争議が全道的に多発し、五十七年十月、前年の事故が引き金となり北炭夕張炭鉱が閉山して鉱員・下請三八〇〇人が職を失い(道新 昭57・10・9夕)、全盛期一〇万人を超えた炭労道本部傘下の組合員数も五十八年には一万二〇〇〇人となった。行政改革の矢面に立たされた公共企業体でも、同五十八年以降の国鉄大幅ダイヤ改正や、郵政では区分・運送システムの大幅改変などによる合理化が進んだ。組合側が大きな闘争を組織できないまま五十九年には専売、電電公社の民営化が決まる一方、国鉄の分割民営化論議が深まるなど行政改革が急速なテンポで進む。同年、札幌でも民間の古谷製菓倒産など失業雇用状況が依然厳しいなか、賃上げ闘争は民間大手や公労協がストを回避して「平穏裡に」終結し、道内民間労組の実力行使も急速に減少した(表12)。その状況下で、公務員共闘や道地公四者共闘、都市交通、自治労、札幌市労連などは、人事院・人事委員会勧告完全実施などを要求して時限ストを数次にわたり継続し、国家公務員・地方公務員・公共企業体などの事業所が集中する札幌では、各共闘組織や市労連など官公労組合による時限ストが交錯・重複して頻繁に展開された。しかし、政府が人勧実施を認め、完全実施に向け大きく前進するのは六十年になってからである(資料北海道労働運動史)。
 五十九年十二月、電電公社民営化三法案が成立した。翌六十年四月、日本電信電話公社がNTT(日本電信電話株式会社)に、また日本専売公社がJT(日本たばこ産業株式会社)に改組し、それぞれの従業員と労働組合には労働組合法が適用されることになり、全電通と全専売両労組は公労協を脱退した。一方、六十年七月、国鉄再建監理委員会が国鉄の分割・民営化の具体案を答申し、同年九月、これに反対して道内でも全道労協が国鉄再建闘争本部を設置した。傘下組合や地区労は「二〇〇万人反対署名」や各自治体への要請行動など反対運動を組織したが、道労働総同盟が「民営・分割推進」活動を展開して運動が分断した。国労など各組合も闘争方針を巡って複雑な対応を重ね、同六十年十二月、国鉄労使間では雇用安定協約の締結問題が焦点となる。鉄労・動労・全施設労の三組合は再契約で合意が成立したが、国労と全動労が余剰人員調整策への協力問題を巡って交渉が決裂し、無協約状態となるなど労使が激しく対立した。六十一年には国労が闘争方針問題で分裂し、組織が事実上崩壊した。道内でも国労脱退や新組織の結成・合併など集散離合を重ね、九月に全道労協を脱退した動労道地域本部も六十二年二月に解散して新組織に加盟し、また、札幌地区組合員主体の全動労が六十二年三月、全動労道地方本部に改変するなど、民営化と組織問題が交錯して各組合の対応も混迷を深めた(資料北海道労働運動史)。