戦後、特に総評傘下の労動組合内部では、国政レベルの選挙を中心に政党支持やカンパ問題をめぐって激しい対立が繰り返されてきた。昭和四十八年(一九七三)の暮れ、官公労交通ストの一翼を担ってきた動労(動力車労働組合)で、翌年に控えた参議院選挙の政党支持をめぐる論議が紛糾し、やがて組織分裂に発展した。全国区候補として同労組前委員長(社会党)擁立を決定していた動労は組合員一人二〇〇〇円の選挙カンパを決議していたが、「政党支持の自由」を主張してカンパ納付を拒否していた札幌地方本部に対し、十二月の臨時大会で札幌地本の執行権停止や札幌地本一三支部組合員(三五〇〇人)の「再登録」を紛糾のうちに決定したものである(道新 昭48・12・22)。動労本部は、ただちに本部派組合員四〇〇人を各地から札幌に動員、札幌地本各支部の事務所明け渡しを要求し、組合員の再登録活動を開始するなどで緊迫した状況となった(道新 同12・24)。翌四十九年一月には、本部派と札幌地本派の組合員が再度、札幌地本事務所前でスクラムを組み対峙するなど対立は激化し、本部の反対派除名処分などにより組織分裂が確定的となった。札幌地本の反本部派組合員は三月二十八日、札幌の北専会館で全国鉄動力車札幌地方労組(一九〇〇人)結成大会を開催。さらに三月三十一日、全国三八地区の反本部派組合員による地方・地区組合などにより全動労(全国鉄動力車労働組合連合会)結成大会を札幌の理容センターで開催した(公称三二〇〇人)。国鉄内の労働組合は、国労・鉄労・動労・施設労、そして札幌地方労組中心の全動労の五組合になり、「右派が組織を脱退して新組合に走る通常の分裂パターンとは正反対」の新組合結成(毎日新聞 昭49・4・1)として全国の注目を浴びた。
四十九年七月の参議院議員選挙では、「金権選挙」や「企業ぐるみ選挙」に対する論議が高まり、自民党の議席数が一二六に減少し参議院の「保革伯仲」状況が生まれた。一方、一三人が当選し議席増を果たした共産党(新議席数二〇)が、選挙期間中から「政党支持の自由」を掲げ、「労組ぐるみ選挙」は「企業ぐるみ選挙と同じ」と激しく非難したことから労組内で社共の対立関係がいっそう先鋭化した(新版日本労働運動史)。社会党は当選二八人中二〇人(新議席数六二)、民社党が五人中四人(同一〇)が労組出身で、定数四の北海道地方区でも社会党が二議席を確保したが、いずれも労組出身者(炭労と国労)であった。四十五年に「政党支持の自由」や「民主勢力の統一戦線促進」を掲げる全日自労、全自運(運輸一般)など共産党系組合で結成した統一促進懇が、四十九年十二月、統一労組懇(統一戦線促進労働組合懇談会)に改組され、社会党系が指導部を握る労組内でも、国政選挙や自治体選挙のたびに政党支持・組織候補推薦問題をめぐって反主流派との対立が深刻化した。