昭和五十年(一九七五)六月十九~七月二日、メキシコに一三三カ国代表が参集した国際婦人年世界会議は、国際連合が主催した会議の中できわめて大きな影響を世界、そして日本に与えた。
「平等・開発・平和」をスローガンとした「メキシコ宣言」および「世界行動計画」は同年の国連総会で支持され、続く一〇年を「国連婦人の十年」として各国でそれにそった国内行動計画に取り組むよう期待された。日本でも同年九月に首相を本部長とする婦人問題企画推進本部を設け、五十二年一月「国内行動計画」を決定し、翌年から総理府が『婦人の現状と施策―国内行動計画に関する報告書』を発表することにした。
国会ではメキシコ会議の直前、全女性議員(衆議院七、参議院一八)が超党派で提案した「国際婦人年にあたり婦人の社会的地位向上をはかる決議」を両院満場一致で採択した。また同年十二月、市川房枝(参議院議員)を委員長とする国際婦人年連絡会(国際婦人年日本大会の決議を実現するための連絡会)が四一の全国的民間女性団体の結束で発足し、「女子差別撤廃条約」調印を初め、政府の女性政策に対する強力な推進体となった(連帯と行動―国際婦人年連絡会の記録)。
一九六〇~七〇年代の資本主義諸国におきた女性解放運動いわゆるウーマンリブや、他国の支配から独立した新興民族国家等のエネルギーを受けて、昭和五十四年の国連総会は「女子差別撤廃条約」(婦人に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約)を採択した。五十五年七月コペンハーゲンで開催の「国連婦人の十年中間年世界会議」までに五一カ国が署名し、翌年発効した。日本も調印し、六十年に批准・発効をみた。
「国連婦人の十年世界会議」は昭和六十年(一九八五)七月、ケニアのナイロビで開かれ、世界行動計画の趣旨を延長して「西暦二〇〇〇年に向けて女性の地位向上をめざす将来戦略」を採択した(国際婦人年及び「国連婦人の十年」の記録)。
政府は「差別撤廃条約」にそった国内法制の整備として、まず国籍法・戸籍法の改正(父系主義から父母両系主義へ、昭60施行)、男女雇用機会均等法の制定(昭61施行)を手がけ、やがて高校家庭科の男女共修(平6施行)を実現した。
平成七年(一九九五)九月に北京で開かれた第四回世界女性会議は、NGOを含む四万人集会となり、「女性の権利は人権である」をキーワードに、各国の公約をもりこんだ「北京宣言」と「行動綱領」を発表した(ナイロビから北京へ)。
ニューヨークで開かれた国連「女性二〇〇〇年会議」の政治宣言は、「ナイロビ将来戦略」「北京宣言」「行動綱領」の完全実施と、二〇〇五年にその達成進歩を評価する集会の開催を呼びかけた。