高度経済成長期の昭和三十二年(一九五七)六月、市内西郊外にある三角山(三一一・三メートル)の私有林部分を採石業者が大規模に工事を開始したところ、地元住民から①残り少ない札幌の緑の景観を損ない風致を害する、②山林の保水力が減少し融雪期にはふもとの民家に水害の危険性が生ずるとの理由から、工事中止を求める採石反対運動が起こった(道新 昭32・10・25)。同山は大正二(一九一三)年、国が札幌神社に付与した七〇〇ヘクタールの一部で、札幌神社が境内に使用していたが、敗戦と同時に大蔵省に没収された。三十二年三月に、所管の北海道財務局が札幌神社に立木とともに三角山を含む四三一ヘクタールを払い下げたところ、市内の採石業者が札幌神社からそのうちの四〇ヘクタールを購入した。その後、北海道が同山を風致保安林に指定(昭和33・7)したものの、「風致を害さない限り」との条件付きで許可し、採石が開始されたことから三十九年になり、反対運動が再度活発化した。三十九年五月、札幌スキー連盟と地元宮ノ森明和会から「三角山採石事業中止に関する陳情」が市議会に提出され、市議会はこれを採択し、同時期に提出された二業者からの採石継続を求める陳情を不採択とした。この段階におよぶと都市周辺における自然保護問題として市民の関心を集めた。さらに四十年六月には北海道が三角山の風致保安林指定解除の方針を市に示したことから、「三角山を守る会」が結成され、署名による反対運動が拡大し、これを受けた市は北海道に対して保安林存続を回答した。ところが十月に北海道が正式に保安林指定を全面解除したことから、市は市費による補償は緑地行政の限界を超えると判断し、森林法に対しての異議申し立ても行わないとの方針を出した。以降、三角山は著しく荒廃していく(十一期小史)。しかし四十四年十二月十八日、札幌市が三角山(琴似町山の手四五四番一のほか八筆)を復元し緑地保全化することで北海道から補助金が交付されることになり、市は市街地から展望される二五ヘクタールを購入することを議決し、問題解決を図った(札幌市公有財産内訳書、昭和44年第4回定例議会議案綴、十二期小史)。
三角山問題では、市民の「公共の福祉」か「私有財産」のどちらが優先されるべきかが問われた。この間、市は三角山の緑保存問題での教訓として、風致林が私有財産の場合は保存が困難なことから、市周辺部の山林や河川の風致を積極的に守る立場から、景観調査を開始し景観リストを作成することとした(道新 昭39・12・2夕)。大都市化に向けて歩み始めた当初に起きた性急な開発に対して、長年にわたり市民に親しまれた緑の山を残そうとした、市民と市との姿勢が一致した初の緑化保全運動となった。その後植樹による復元が進められたが、採石により二カ所にできた深い爪あとは、平成十六年(二〇〇四)になっても残されたままの状態である。