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北区の誕生

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 昭和四十七年四月、札幌市で区制が施行された。北区の誕生である。当時の北区の人口は一三万一四六三人であった。冬季オリンピック開催にあわせて、前年十二月に地下鉄南北線(北二四条~真駒内間)が開通し、中心部との交通がより便利になった北区は、その後も人口が増加していく。それにあわせて生徒数も増加し、同年十二月には、新琴似中学校から分離して新琴似北中学校が開校した。市内で五〇番目の中学校であり、これで北区内の中学校数は五校となった。四十九年十一月現在の北区の中学校の配置と通学区域は図2の①のとおりである。ただし、図にみるように新川地区の生徒は八軒中学校(西区)へ、太平地区の生徒は栄中学校(東区)へと他の区の学校に通っている。新川地区では、その後五十一年に新川中学校が新設されている。

図-2 北区の中学校の変遷

 新琴似北中学校は、全学年がそろった四十八年四月に、学級数が二三、全生徒数が一〇三八人の規模となった。四十九年から五十一年にかけては毎年ほぼ二六〇人程度の増加があり、五十二年には学級数四二、生徒数一七九四人という市内有数のマンモス校となった。翌年三月の北二四条から麻生間の南北線延長も北区の人口増に拍車をかけた。同年三月二十七日には新琴似北中学校から四六六人を受け入れて、光陽中学校が開校した。四月時点での学級数は一八、生徒数は七一六人であった。その後、北区では中央部に位置する新琴似地域や太平地域などで人口増がさらに進み、五十四年三月には太平中学校が、五十六年三月には屯田中央中学校が新設された。五十八年十一月現在の北区中学校数は九であり、その配置と通学区域は図2の②のとおりである。