昭和五十年台初頭の時期に「リジン添加問題」が浮上した。リジンとは必須アミノ酸の一つであり、文部省の指示により四十九年の二学期より道教委が添加を決めていたが、発ガン性物質であるベンツビレンが含まれていたのである(道新 昭50・6・13)。道教委では五十年六月十日に添加継続の見解を発表したが、論議は沸騰した。市では結局、七月十五日より無添加パンによる給食を実施した(道新 昭50・7・8)。このようなパンの安全性に関しては、イースト菌の発酵を進める臭素酸カリウムの添加を五十五年度の二学期から札幌市をはじめ道内で取りやめるなどの動きがその後も続いた(道新 昭55・5・13および5・22)。
食の安全性が問われる一方で、食物アレルギーが学校給食の課題となった痛ましい事件が六十三年に起こった。同年十二月八日、北区のS小学校六年の男子が学校給食のそばを食べ、アレルギーの症状を訴えたため、担任教諭が母親に電話で了解を得た上、一人で下校させたところ、帰宅途中、そばアレルギーによる強度のぜんそくの発作を起こし、吐いたものをのどにつまらせて死亡した。平成元年六月十四日、児童の両親は、学校を管理する札幌市を相手取り損害賠償を求めて札幌地方裁判所に提訴した。給食に関わるアレルギー事故は全国に例がなく、各方面から注目を集めた。訴訟では、札幌市の安全な給食を提供しなければならない立場での安全配慮義務違反と、ぜんそくなどの命に関わる危険な症状を予見し、応急措置を取り結果を回避できたかという予見可能性と回避可能性の有無を巡って争われた。訴訟は二〇回の口頭弁論を経て、四年三月三十日に判決が言い渡された。判決は、原告両親の主張をほぼ認め、市に一五〇〇万円余りの支払いを命じた。市は四月十三日に札幌高等裁判所に控訴した。市議会では控訴を巡って活発な質疑が行われ、その中で市教委は控訴の態度を崩さない一方で、和解の可能性について示唆した。十二月十五日に札幌高裁は職権で和解勧告を行い、翌年一月十三日には、「担任教師の過失を前提としない」旨の和解案を提示した。結局二月十日に市長によって和解の専決処分が行われ、和解が成立した。和解の内容は、市が両親に哀悼の意を表すこと、市が和解金八〇〇万円を支払い、両親は請求を放棄すること、などであった。両親は同日の会見で「金額は問題ではなく、この裁判がきっかけとなり、文部省や教育現場でのアレルギー対策が改善され、社会的な役割を果たしたため和解に応じた」と述べた(十八期小史)。
四年六月、文部省は「学校給食指導の手引」改訂に際し、新たに食物アレルギーに関する項目を取り入れることにし(道新 平4・4・6)、手引きは七月に改訂された。道議会でも判決直後に裁判の質疑が行われ、アレルギー問題への対応を含めた給食指導資料を作成し、適切な指導をしていくことが明らかになった。「たのしい学校給食」と題された教師向け資料は、五年七月十日までに作成された(道新 平5・7・11)。市では三年五月に新入学児童・生徒を対象とした食物アレルギー調査を実施し、小・中学校でともに二・二三パーセントの者がアレルギーを持っていることがわかった。またアレルギーの原因となる食品は、卵・そば・牛乳・キウイフルーツなど二一〇品目にものぼった。そばアレルギー事故は、まさに食物アレルギーの危険性に警鐘を鳴らし、学校給食に大きな影響を与えた事件であった。
その後も食中毒問題が学校給食に大きな影響を与えた。八年夏に、大阪府堺市などで病原菌O-157による集団食中毒事件が起こった。道内でも帯広・静内などで患者が発生した(道新 平9・4・30)。市では学校給食のサンプル保存期間を、従来の四日から七日に延長し、二学期の学校給食開始前には給食室の消毒を徹底した(道新 平8・8・16夕)。二学期からの学校給食では給食の献立から生野菜やレバー・いり卵などがはずされた。十三年夏には日本で初めてBSE(牛海綿状脳症)にかかった牛が道内で発見された。そのため市教委で同年十月五日に、学校給食における牛肉自粛の決定をした(道新 平13・10・6)。