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市立高等専門学校の設置と教育

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 専科大学構想は、大学昇格をめざす短期大学や戦後の学制改革を支持する声によって流産してきたものである。一方、昭和五十五年度以降、国立高等専門学校校長協会を中心として高専を「専科大学」に名称変更する運動が起こった。上記で見たように臨教審や中教審答申にも、その文言が取り込まれるなど、関係者の期待が寄せられた。しかし学校の内容としては大学ではないことから、大学の名称を使用することについて論議が進まず、最終的には内閣法制局の見解で、専科大学構想は頓挫することになった。
 構想の論議が進まない中で、札幌芸術専科大学の開校も危ぶまれることになった。平成元年の第一部予算特別委員会において市は、国が法改正を行わなければ、市立高等専門学校として開校することを示唆する答弁を行った。同年四月には、校長就任を要請している清家清を委員長とする「設置準備委員会」が設置され、基本方針の策定・教授の選定・施設設計など文部省への認可申請の準備を開始した。七月には基本設計と完成予想図ができあがった。同年第三回定例市議会において市は、高等専門学校としての開校を正式に表明し、その学科構成としてデザイン系一学科とし、高学年において環境・建築・工業・工芸及び視覚デザインの五コースに分けて学習させたい旨を答弁した。二年六月、市は文部省に札幌市立高等専門学校の設置認可申請を行い、同年十二月に認可された。高等専門学校の新設は国・公、私立を通じ一七年ぶりのことであり、工業系・商船系ではない新しい高等専門学校の成立となった。
 市立高専は、三年四月十日に入学式を迎え、開学した。場所は芸術の森の隣接地であった。同校について清家清校長は、「自由、平等を尊重し、『美』をクリエーティブ(創造)する精神を教育理念の基本と考えたい。」(道新 平3・4・22)と述べた。
 一期生は二クラス定員八〇人に対し、推薦・一般入試あわせて四〇四人のなかから選ばれた。学科名は、インダストリアル・デザイン学科とされ、カリキュラムは、一般(教育)科目と専門(教育)科目とが「くさび形」になる、すなわち学年の進行に合わせて専門(教育)科目の比重が高まるような形式で構成された。三学年からは、専門(教育)科目の選択科目がおかれ、学生は前述の五コースのなかから各自が一コースを選び、それぞれの専門分野の科目を履修することになっていた。開校当時の教員数は一三人であったが、完成年度である七年度には三〇人となった。施設は開校当時は本部棟・一般教育棟のみであったが、四年には図書館、五年には専門教育棟、六年には学生会館が竣工した。八年四月には専攻科が開設された。一学年定員は二〇人で、修業年限は二年であった。修了した学生は、学位授与機構の審査を受け、一定の要件を満たすことにより、学士の学位を取得することができた。大学卒業と同様の資格が与えられたのである。市立高専は十六年三月までに本科卒業生を四一三人送り出した。就職率は九年間総計で約三一パーセント、進学率は約三七パーセントであった(札幌市立高等専門学校開校10周年記念誌DATA BOOKおよび市立高専資料)。十八年、上記でみたように、札幌市立高等看護学院と統合して札幌市立大学に生まれ変わる予定である。

写真-8 市立高等専門学校全景