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手稲西幼稚園の教育

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 仲よし子ども館の活動があり、また保育園を重視して「従来から市立幼稚園は設置しないという基本方針で進めてきた」(十二期小史)ため、市では公立幼稚園の設置はなかなか進まなかった。公立幼稚園の最初のものは、手稲町などとの合併によるものである。すなわち、昭和二十三年八月に私立幼稚園として設立された星置幼稚園が、二十九年九月に町立移管で手稲西幼稚園となり、さらに四十一年四月に場所が移転されて手稲中央幼稚園となったが、これが四十二年三月の札幌市との合併によって、市立手稲中央幼稚園となったのである。手稲西幼稚園では、早教育を排除しようとした。早教育は「子どもを歪める素因になり勝ちである」として、「子どものすべてを認め、その因って来たところを探り、その子のもつ価値の芽を発見し、それを大事に守り育ててやることを親と共に努め合う」ことを第一の使命とした(手稲町史)。
 幼稚園は戦後、学校の一種として発達してきたが、それゆえ、小学校の内容を下におろしてさまざまに教育する傾向があった。いわゆる「幼稚園の学校化」といわれる現象である。三十九年三月に改訂された幼稚園教育要領は、三十一年三月にだされた要領が大まかな方向付けにとどまり、基本方針や具体的な教育課程の編成などについてきまりがなかった問題点を克服し、上記の点や各領域(健康・社会・自然・音楽リズム・絵画製作)の指導内容を明確化した。「小学校の予備校的教育」を行わないようにという趣旨はみられるが、実際には指導内容の明確化が「幼稚園の学校化」をまねく結果となった。手稲西幼稚園では、早教育を批判し、「子どものすべてを認め」て、幼児に対する適切な環境を与え、遊びを通じて子供たちの成長を見守るという教育を志向していた模様である。子どもを中心に考え、それを支援していくという「自由保育」の考え方は、のちに平成元年版の教育要領にはっきりと打ち出されることになるが、四十年代から五十年代には、「設定保育」によって指導するという教育が中心となっていた。