昭和五十年度の市の五歳児の就園率は六四・〇パーセントとなった。仲よし子ども館への就園率一二・八パーセント、保育所への就園率一二・四パーセントを合わせると八九・一パーセントとなり、ほとんどの五歳児が何らかの教育を受けている状態となった。また四歳児で仲よし子ども館四七・一パーセント、幼稚園二三パーセント、保育所一一・八パーセント、三歳児で仲よし子ども館四九・九パーセント、幼稚園〇・七パーセント、保育所九・二パーセントの就園率となっている(道新 昭50・10・28)。このように、仲よし子ども館への就園が三、四歳児で高いのが札幌市の特徴である。子ども館への就園にはいろいろな見方があるが、ある程度、幼児教育の「定着」がなったとおさえてよいだろう。
幼児教育の環境条件整備の指標として、人口一〇万あたりの幼稚園数、教員一人あたりの幼児数などがある。市でみてみると、幼稚園数は七・九園で、政令指定都市一〇都市の中で最も少ない。全国平均の一一・八園と比べても低い。これは、就園率が低く、一方で仲よし子ども館の活動が活発であることが関係あろう。幼児数でみるならば、一〇都市の中で最も少ない二五・九人で、全国平均の二六・一人を下回っている(図説 横浜のすがた―10大都市の比較より―)。市の幼稚園教育は、就園率が低く幼稚園数も少ないが、教員数は多いということになろう。
その後、就園率は上昇し五十五年度には七〇パーセントを超えた。しかし少子化のなかで、五十六年度には市内の就園対象児(三~五歳)が、五十五年度に比べ二五〇〇人減少し、私立幼稚園の中には、定員を満たすことのできない園もでてきた。一方で市立幼稚園希望は多く、さらに幼稚園数も増加した。市立への希望は授業料などの安さが理由であり、幼稚園の増加は人口急増の幼稚園「真空」地域への進出を図るものであった(タイムス 昭57・11・9)。
六十年度には、年々増え続けてきた市内の園児数が、初めて減少に転じた。園数は前年度より二園増え、一三九園となった。五年前に比べると一九園もの増加であった。しかし、園児数は二万八〇四四人で、前年より二三〇人、率で〇・八パーセントの減少となった。人口増のペースがスローダウンするとともに、出生率の低下が原因とみられた。また就園率も七四・五パーセントと、前年度の七六・八パーセントに比べて低下した。年齢別の園児数割合は三歳児四・三パーセント(前年三・六パーセント)、四歳児三七・三三パーセント(前年三七・二パーセント)、五歳児五八・四パーセント(前年五九・二パーセント)だった。三歳児が増えたのは入園児数の減少に対応して幼稚園側が「必死の掘り起こし」をしたためと考えられた(読売 昭60・11・7)。
平成元年三月に新幼稚園教育要領が公示された。二五年ぶりの改訂であった。幼稚園教育の基本を小学校以上の教科別の学習指導とは異なり、「個々の幼児の主体的な生活や遊びを通して行われる総合学習」と位置づけた。その特色は、①小学校低学年との接続の観点から基本的生活習慣を重視する、②遊びを通じて社会性を育て、規制より自立を引き出す ③文字、数量は自発的な興味、関心をもたせる現行のやり方を踏襲、画一的に漢字を「覚え込ませる」などの指導は行き過ぎ、などであった(中沢和子 子どもと環境)。いわゆる「設定保育」から「自由保育」への転換がなされたのである。