戦後、養護学校は義務化がなされていなかったため、全国的に見てもほとんど設置されていなかった。市内においては、昭和二十四年九月二十六日に、知的障がいをもつ子ども達のための「精神薄弱児施設」となった報恩学園内に私立養護学校が設置され、また翌年一月に道立もなみ学園が、二十六年には花園学園が設置された。肢体不自由児のための施設としては二十八年五月に北海道整肢学院が設置された。この時に同学院には琴似小・中学校分教室が設置された。以上のように盲・聾以外の障がいをもつ子ども達の教育は、社会福祉施設との関連で進んでいった。
養護学校が設置されない中で、二十六年一月に「特殊学級」が当時の琴似町立琴似小学校に設置された。知的障がい児のための学級であり、滝止士(とめじ)が教育にあたった。翌年四月には、美香保中学校にも知的障がい児の「特殊学級」が設置された。担任の名をとって菅原学級とも呼ばれた。当時は、国や道からの財政的な裏づけはなく、PTAからの支出などで経費が賄われた。一二人の菅原学級の生活は「20坪の学級を与えられたもの」の、「生徒が喜ぶ何1つの教材教具もなかった。図書室から借りてきた10数冊の本が財産で」あった。どの生徒も教室から出ることを嫌い、運動場にももちろん出なかった。その後「元気を出しはじめ、教室は運動場になった」。また「いろいろな喧嘩があらわれ」、「子どもたちは自らけんか学級となづけるようになった」。しかし「学級に中に次第に新しい芽ばえがみえて」きた。「6月も末になったころ、子どもたちの手で学級自治会が誕生し、〈けんかのない学級〉という主題で第一回目がおこなわれた。…その後、喧嘩は下火となり、壁新聞が編集されたり居残りして数学や国語の勉強をする生徒」もあらわれた(北海道の精神薄弱児教育史)。
翌年、琴似小学校に併置される形で琴似中学校にも「特殊学級」が設置された。これらの学級の活動のなかで、北海道大学教育学部特殊教育研究室の指導のもと、「北海道精神遅滞児教育連盟」が二十七年十月二十一日に設置された。また同時期には市教委による「市内小中学校に於ける精神遅滞児の実態調査」が行われ、二十九年に発表された。さらに三十年八月一日には、北海道精神薄弱児育成会(通称 手をつなぐ親の会)が結成された。行政機関や議会への働きかけなど社会への啓発活動が、この会を通じて行われた。