世界的な指揮者・作曲家のレナード・バーンスタインが、「残った時間を学生の教育に充てたい」という思いから、故国アメリカのタングルウッド音楽祭をモデルにアジア地区で音楽祭を、という夢を実現させたものだった。当初は中国の北京での開催が予定されていたが天安門事件のため日本に変更となり、梅雨がないという理由で札幌が選ばれた。
初年度の会期は六月二十六日から七月十四日までの一九日間で、野村證券ほかの企業が五億円を拠出し、東京の音楽事務所を中心とした運営態勢が取られた。
道内出身の七人を含む一七カ国一地域からの一二三人の学生が参加し、PMFオーケストラを中心として、教育に力を入れたプログラムが組まれた。指揮者としてバーンスタインとティルソン・トーマスが顔をそろえたほか、演奏のほかに学生の指導も受け持つレジデント・オーケストラとしてロンドン交響楽団が長期間滞在し、バイオリンの五嶋みどりらのソリストも参加した。コンサートなど五〇の催しが行われ、期間中に出演した音楽家は約五〇〇人、コンサートに足を運んだ聴衆は、延べ約二万八〇〇〇人にのぼった。
写真-3 第1回PMFでアカデミーを指導するバーンスタイン
バーンスタインは引き続いての東京公演で体調を崩してツアー途中で帰国し、十月に指揮活動からの引退を表明した直後に死去して世界中のファンを嘆かせた。
二年目以降は札幌市が運営を引き受けることとなって組織委員会を発足させ、専任スタッフを置いた。
以降はティルソン・トーマスとエッシェンバッハが芸術監督を務め、レジデント・オーケストラとしてはヒューストン交響楽団(三年)、バイエルン放送交響楽団(四年)、サンタチェチーリア国立アカデミー管弦楽団(五年)が参加したほか、世界の一級ソリストたちも顔をそろえた。ニューヨークにあるバーンスタイン財団のクラウト理事長が、企画面を陰で支えた。
その後、新たな企画として始まった「レジデント・コンポーザー」制度は、一人の作曲家が自作の練習と本番に立ち会い、「パシフィック・サウンディング」演奏会でその作品が特集されるものである。さらに声楽・ピアノコースや聴講生制度も設けられた。また全国から学校教諭を呼ぶ教育セミナーや学校への出前指導もあり、道内各地での公演も増えていった。