1
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康正2年(丙子)夏
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1456
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東部のアイヌ,蜂起.この年春に東部志濃里(しのり)鍛冶屋村の鍛冶(和人)と注文主のアイヌ少年とマキリの価格について口論となり,鍛冶がアイヌ少年を殺害したことが原因(以後,大永5年までアイヌ,連続的に蜂起.そのため太平洋沿岸は鵡川,日本海沿岸は余市に至る間の居住和人の村里は滅亡,居住範囲は天の河と大館に縮小).
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第1巻p362
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【出典資料番号】:
1 2
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2
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長禄1年(丁丑)5月14日
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1457/5/14
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首長コシャマインに率いられたアイヌ,志濃里・箱館・中野・脇本等各和人館たてを攻略,12の館のうち残った下の国の守護茂別館主下国家政と上の国の守護花沢の館主蠣崎季繁は反撃に転じた.長禄2年,コシャマイン父子をはじめ多数のアイヌは討たれる.
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第1巻p362
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【出典資料番号】:
1 2
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3
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文明3年(辛卯)夏
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1471
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夏から秋にかけてアイヌ蜂起や疾病・風災・飢饉が重なり,アイヌ・和人共に死者多数をだす.
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【出典資料番号】:
1
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4
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永正9年(壬申)4月16日
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1512/4/16
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宇須岸(うすけし)・志濃里・与倉前(よつくらまえ)の3館,アイヌの攻撃により陥落(『松前年代記』・『松前志』によれば永正8年4月16日),館主ら自害.
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第1巻p363
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【出典資料番号】:
2
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5
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永正10年(癸酉)6月27日
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1513/6/27
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大館,アイヌの攻撃にあい陥落.大館館主ら自害.
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第1巻p363
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【出典資料番号】:
2
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6
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永正11年(甲戌)3月13日
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1514/3/13
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蠣崎義広,父光広とともに小船180余隻を率いて上の国(勝山館)より大館に進出.蠣崎光広より檜山の安東氏に大館占拠と「松前之守護職」承認を得るため使者を派遣,3度目の使者により蝦夷島を義広に預ける旨の判形を得る.よって諸国より渡来の商船旅人より年俸を徴収しその過半を檜山に上納.蠣崎氏,事実上の館主の統一者となる.
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【出典資料番号】:
2
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7
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永正12年(乙亥)夏
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1515
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アイヌ蜂起.6月22日蠣崎光広謀略をめぐらし,蜂起計画のアイヌ首長ショヤ・コウジ兄弟らを徳山館内に招き入れ,1人残らず殺害.
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【出典資料番号】:
2
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8
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大永5年(乙酉)春
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1525
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東西両道のアイヌ蜂起,多数の和人死亡.生き残った者は天の河と徳山に集住.
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第1巻p362
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【出典資料番号】:
3
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9
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享禄2年(己丑)春
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1529
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西部のアイヌ首長タナサカシ,瀬田内に出陣,蠣崎義広派遣の工藤九郎左衛門祐兼を破り西部の本拠地上の国を攻撃.タナサカシ,蠣崎義広に殺害され,残りのアイヌも敗北.
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【出典資料番号】:
3
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10
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天文5年(丙申)夏
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1536
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西部の首長タリコナ,妻の怨訴に動かされて舅タナサカシの仇を討つために蜂起.6月23日タリコナ夫妻,講和とみせかけた蠣崎義広の誘いにより城中にて殺害.これ以降,東西蝦夷地静謐に帰し,アイヌ蜂起がみられなくなったという.
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【出典資料番号】:
2
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11
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天文19年(庚戌)6月23日
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1550/6/23
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檜山の下国安東舜季(きよすえ),国状を見るため徳山に来る.
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【出典資料番号】:
2 47
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12
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天文20年(辛亥)この年
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1551
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蠣崎季広,東西のアイヌと講和し,瀬田内のハシタインを西夷の首長に,志利内のチコモタインを東夷の首長とし,諸国より渡来の商賈しょうこから年俸を徴収,「夷役」と称して両首長に配分(『松前家記』などが商賈を商船と記しているので,この年俸を沖の口税的なものとする見解がある),アイヌの商船の往来と蠣崎氏との交易方式を制定(『新羅之記録』から,これを天文19年との見解あり).
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第1巻p363
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【出典資料番号】:
2
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13
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永禄8年(乙丑)1月10日
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1565/1/10
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日本在留のイエズス会宣教師ルイス・フロイス,西暦1565年2月20日付にてインドのゴアの本部に報告書を送り,ヨーロッパに初めてアイヌ及び蝦夷地を紹介.
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【出典資料番号】:
4
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14
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元亀2年(辛未)9月18日
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1571/9/18
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イエズス会宣教師ガスパル・ビレラ,西暦1571年10月6日付にてゴアより本国ポルトガルへ書簡を送り「此国民(アイヌ)はデウスを知らず太陽を拝せりと云ふ.我等の心を恩寵を以て輝し給ふ真の太陽なる我等の主基督の教に依りて彼等の輝さるゝ時来るべし」と蝦夷地布教の意志を示す.
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【出典資料番号】:
4
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15
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天正1年(癸酉)7月18日
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1573/7/18
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足利義昭,織田信長に降り,室町幕府滅亡.
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【出典資料番号】:
104
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16
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天正18年(庚寅)12月29日
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1590/12/29
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蠣崎慶広,聚楽第において初めて豊臣秀吉に拝謁.全国統一政権の力が道南に及び始める.
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第1巻p363
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【出典資料番号】:
5
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17
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天正18年(庚寅)この年
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1590
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豊臣秀吉,北条氏を撃ち,関東・東北を平定.
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【出典資料番号】:
1 2
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18
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文禄2年(癸巳)1月6日
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1593/1/6
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蠣崎慶広,豊臣秀吉より朱印状(1月5日付)を授けられ,松前(和人地)での交易独占者としての地位を保証される.
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第1巻p363
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【出典資料番号】:
1 2
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19
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慶長3年(戊戌)8月18日
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1598/8/18
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豊臣秀吉,死去.
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【出典資料番号】:
104
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20
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慶長4年(己亥)11月7日
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1599/11/7
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蠣崎慶広,大坂城西丸で徳川家康に地図および系図を差し出す.この時より蠣崎氏を改めて松前氏を名乗る.
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第1巻p364
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【出典資料番号】:
1
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21
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慶長8年(癸卯)2月12日
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1603/2/12
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徳川家康,征夷大将軍に任じられ,江戸幕府を開く.
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【出典資料番号】:
6
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22
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慶長9年(甲辰)1月27日
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1604/1/27
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松前慶広,徳川家康より黒印状を授けられ,松前氏の蝦夷地全域での交易権掌握の保証を得る.アイヌに対しては,「何方へ往来するとも心まかせ」としているのが特徴.松前藩の原型が確立.
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第1巻p364
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【出典資料番号】:
3
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23
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慶長9年(甲辰)5月28日
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1604/5/28
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松前慶広,従五位下・伊豆守に叙任(それまでは志摩守を私称).
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【出典資料番号】:
2 3 6
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24
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慶長16年(辛亥)10月
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1611/10
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蝦夷島東海岸に大津波がおき,死者が多数にのぼる(10月28日の三陸地方強震津波の余波).
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【出典資料番号】:
1
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25
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慶長18年(癸丑)12月19日
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1613/12/19
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幕府,キリスト教を禁止.
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【出典資料番号】:
104
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26
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慶長19年(甲寅)10月1日
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1614/10/1
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大坂冬の陣始まる(12月20日講和する).
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【出典資料番号】:
104
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27
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元和1年(乙卯)4月6日
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1615/4/6
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徳川家康,再び大坂征討を命じる(大坂夏の陣).5月7日大坂城落城.5月に松前慶広も参戦する.
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【出典資料番号】:
2 104
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28
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元和2年(丙辰)4月17日
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1616/4/17
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徳川家康,死去.
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【出典資料番号】:
104
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29
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元和2年(丙辰)10月12日
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1616/10/12
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松前慶広(松前家初代藩主),死去(享年69歳).
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【出典資料番号】:
2
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30
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元和4年(戊午)この年
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1618
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イエズス会士ジロラモ・デ・アンジェリス,津軽から福山に渡り10日間滞在,15人の信者の告解をうける等布教活動を行う.松前侯(公広)は,松前は日本に属さずとして幕府による禁教令発令後にもかかわらずアンジェリスを厚遇.
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【出典資料番号】:
7
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31
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元和6年(庚申)この年
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1620
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イエズス会士カルワーリュ,秋田から金掘の名義で福山に渡り,福山と千軒岳金山に各1週間滞在,初めてミサを行う.元和8年にも渡来.
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【出典資料番号】:
8
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32
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元和7年(辛酉)この年
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1621
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アンジェリス,再び蝦夷地に渡る(この時の報告書に,海峡の存在とアイヌ社会の構造をあげるとともに,蝦夷地が島であると推定).
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【出典資料番号】:
9
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33
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寛永1年(甲子)夏
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1624
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福山に疱瘡流行し,多数の子供が死亡する.
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【出典資料番号】:
2
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34
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寛永10年(癸酉)7月9日
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1633/7/9
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幕府巡検使分部左京佐光信ら一行,福山に到着.松前藩領として西在乙部・瀬茂内,東在潮泊・石崎までを視察する.
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【出典資料番号】:
1 3
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35
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寛永12年(乙亥)5月20日
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1635/5/20
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幕府,外国船の入港・貿易を長崎・平戸に限定し,日本人の海外渡航・海外よりの帰国を厳禁する.
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【出典資料番号】:
104
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36
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寛永16年(己卯)8月
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1639/8
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島原の乱後の禁教令強化を受け松前藩,東部大沢において切支丹宗徒50人を処刑・斬首.西部日市村(一に比石に作り,のちの石崎村)において残党6人,千軒岳金山において50人斬首.この年処刑の宗徒,都合106人.
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【出典資料番号】:
10
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37
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寛永17年(庚辰)6月13日
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1640/6/13
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東部駒ヶ岳噴火,沿岸一帯に津波が発生する.福山近辺,和人・アイヌ共に死者700余人を数える(一説には戸勝より亀田に至るまで溺死500余人という).
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【出典資料番号】:
2 3 10 11
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38
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寛永20年(癸未)5月
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1643/5
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西部シマコマキのアイヌ・ヘンナウケの蜂起鎮圧のため出陣の佐藤権左衛門ら帰藩する.
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【出典資料番号】:
10
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39
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寛永20年(癸未)7月12日
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1643/7/12
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オランダ人フリースの指揮する東インド会社の金銀島探検船カストリクム号,アッケシに入港.松前藩士が臨検する.蝦夷島周辺を測量して退帆.
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【出典資料番号】:
243
|
40
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正保1年(甲申)秋
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1644
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松前藩,『松前絵図』(正保御国絵図)を幕府に呈上.
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【出典資料番号】:
3
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41
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慶安1年(戊子)春
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1648
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東部サル地方のメナシクル(東方衆.シブチャリを拠点としトカチ地域に及ぶ)とシュムクル(西方衆.ハエを拠点としハエクルともいい,サッポロ地域に及ぶ)の間に争い起こる.シブチャリの脇大将シャクシャインとハエのオニビシが出合い,3日にわたる酒宴の末にシャクシャインがオニビシの下僕1人を殺害し,これが発端となって同年冬より戦闘が始まる.松前藩では,商場交易の支障になるため数度にわたって双方に使者を送り和解をはかったが,承応2年まで6年にわたり争いが継続する.
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第1巻p371
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【出典資料番号】:
3 10 12
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42
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慶安4年(辛卯)7月23日
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1651/7/23
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江戸で由井正雪の陰謀が発覚する.
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【出典資料番号】:
6
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43
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承応2年(癸巳)春
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1653
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メナシクルのカモクタインとシュムクルのオニビシが戦い,カモクタインが殺され,メナシクル側は大敗.副将シャクシャイン,松前藩の調停を受け入れてオニビシと和解する(『福山秘府』は,シュムクルに首長カモクタインを殺害されたメナシのアイヌが蜂起,松前藩では重臣下国内記広季・佐藤権左衛門季信・新井田瀬兵衛広成を派遣してこれを鎮圧したとし,『津軽一統志』はこれを明暦3年のこととしている).
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第1巻p372
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【出典資料番号】:
12
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44
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明暦1年(乙未)春
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1655
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東部サルのメナシクルとシュムクル,ともに福山に来る.この年メナシクルの首長シャクシャインとシュムクルの首長オニビシ,福山にて松前藩の仲介にて和解.
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第1巻p372
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【出典資料番号】:
10
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45
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寛文3年(癸卯)7月11日
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1663/7/11
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東蝦夷地宇須(有珠)岳噴火.13日まで間断なく地震.14日再噴火,15日大地震・降灰.これより付近のアイヌ家屋焼失・埋没,アイヌの死者多数被害甚大.
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【出典資料番号】:
1 3
|
46
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寛文6年(丙午)この年
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1666
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メナシクル(シャクシャイン方)とシュムクル(ハエクル.オニビシ方),熊・鹿・魚の狩猟・漁撈権(イオル)を相互に侵干,確執が再発.
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第1巻p372
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【出典資料番号】:
13
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47
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寛文7年(丁未)夏
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1667
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メナシクル,活鶴を購うためウラカワより来たオニビシ方のアイヌ・ツカコボシの甥を殺害する(『寛文拾年狄蜂起集書』ではオニビシの甥,『蝦夷蜂起』は同年冬シャクシャインの子カンリリカがオニビシの下人を殺害とある).掛合では埒明かずとみたオニビシ,11月頃部下90人余を率いてシャクシャイン居所に押し寄せたが,金掘文四郎が調停する.12月金掘文四郎,福山に上りオニビシとシャクシャイン調停の件につき報告(一説に松前藩,金掘文四郎を通じオニビシ方に味方することを明らかにしはじめる).
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第1巻p372
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【出典資料番号】:
13 15
|
48
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寛文8年(戊申)4月21日
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1668/4/21
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シャクシャイン,金掘文四郎の小屋にオニビシを討つ.12月シュムクルのチクナシとハロウ,福山に上り兵具・俵物の借用を願う.松前藩,兵具の下付は前例がなしとして拒否し,俵物・酒を賜う.以後も,シュムクルとメナシクルは度々衝突.
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第1巻p372
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【出典資料番号】:
12 13
|
49
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寛文9年(己酉)4月
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1669/4
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オニビシの姉婿のウタフ(ウトマサ),藩主の帰藩を聞き福山に上りオニビシの仇討ちのための兵具・俵物の借用を乞うが拒否さる.帰途,疱瘡を患いノタオイにて急死.ウタフの死が松前藩の毒殺と伝わり,シャクシャインの下で各アイヌをまとめ,商船などを急襲.松前藩この旨を幕府に急報し,幕命により弘前藩,松前領に出兵.盛岡藩などに出兵準備下命.旗本の松前八左衛門泰広,幕命により来藩.松前藩兵を率い東部に進出.クンヌイにてアイヌと交戦.10月22日シャクシャイン,ピポク(ニイカップ)において討たれる.
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第1巻p373/第1巻p373/第1巻p377
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【出典資料番号】:
1 3 12 13
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50
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寛文10年(庚戌)5月
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1670/5
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弘前藩,隠密船を東西蝦夷地に派遣.この時西蝦夷地に入った牧只衛門の報告によれば,イシカリ・サツホロについて以下のことが記される.①イシカリのところで「上の国惣大将」ハウカセは,おおむね前年の蜂起には武装中立を堅持.②領域は,はつしゃふ,おたる内,イシカリ河口,マシケなどを.③イシカリ河口より1里ほどさかのぼり「はつしゃふ」,さらに2里さかのぼって「さつほろ」にアイヌ居住(さつほろの初出).④「はつしゃふ」にアイヌの首長「よろたいん(ようたいん)」居住.⑤イシカリ川中流には「ちよまかうた」という交易所あり.この頃,蝦夷地の鳥屋(とや)場,「しこつ」「いしかり」に多数あり.アイヌに急襲された鳥屋多し.
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【出典資料番号】:
13 14
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