秀吉は、石川数正を寝返らせた直後には、右で見たように出して成敗してやると、家康に対する威勢のよい武力討伐の方針を語っていた(8)。最新の研究では、秀吉は本気で家康を攻めるつもりで準備を始めていたことが分かってきている。それにしても、十一月二十八日には織田長益ほかを派遣して、家康の入洛(上京)つまりは秀吉への臣従を促している。これはもちろん、石川数正の自陣営への寝返りという一件を好機としての動きであった。このとき家康はこれを拒絶し、不穏な空気もただよった。だが、その翌日に起こった天正大地震の被害もあって、家康討伐どころではなくなったらしい。翌天正十四年一月には和議がなっている。そして五月には自分の妹を離縁させてまで、家康の正室(後妻)に送り込み、さらに十月には実母を実質的な人質に送ることまでして、家康との大坂城での対面を果たし、家康を服属させた形をとることに成功したのだった。