浅井洌は、嘉永2年(1849)松本城下の鷹匠町に松本藩士大岩昌言の3男として生まれ、幼名を大三郎、大義といいました。文久元年(1861)12歳のときに堂町の松本藩士浅井持満の養嗣子となり、継之助勝哉と改名、のちに洌と改めました。長兄大岩昌蔵(活版業「吟天社」を創立)、弟小川昌成(教育者)も名を成しています。
幼少より四書の素読、習字を習い、藩校で漢学を学びました。剣術、槍術、砲術、水泳の免許を受け、文武両道の修業に励んでいます。慶応元年(1865)には松本藩の長州征伐に従軍し、明治維新後、藩命により江戸に遊学し漢学を学びました。
明治4年(1871)の廃藩置県で帰国。5年5月に開設した筑摩県学に出仕し、教師として出発します。6年5月「学制」による第一番小学開智学校の開校にともない訓導に命じられました。同年10月、師範講習所に入学して近代教育の講習を受けたのち、信楽村(現在の松本市出川、並柳、笹部、高宮、平田、野溝地区)の盛業学校(のちに出柳学校と改名)の教師として、明治7年から14年にかけて勤務しました。12年には教師をしながら北深志町町会議員や南深志町・北深志町連合の町会議員をつとめ、長野県教育会議の議員や東筑摩教育会の議員となりました。
この時期の浅井洌は、松本を中心に全県に燃え上がった自由民権運動の結社奨匡社の創立委員の一員となり、新聞に雑誌に言論活動を展開します。13年4月の奨匡社発会のときに浅井は、常備議員・臨時委員に選ばれ、国会開設請願の起草委員にも選ばれました。
集会条例などが制定化され教員の政治運動が困難になったこともあって、浅井は教育に専念するようになります。明治14年4月から19年8月まで5年あまり公立松本中学校教師として勤務し、国語・漢文・歴史を教えました。天白町に住んでいた洌は自宅でも自習学舎という塾を聞き、木下尚江(社会運動家・小説家)、百瀬興政(医師・松本市長)らが学んでいます。「松本繁昌記」は、この時期に書かれたことになります。
明治19年9月、浅井は長野県尋常師範学校勤務を命じられ長野に移り住みます。明治31年11月、信濃教育会は小学校唱歌教授細目取調委員会を組織し、作詞を委嘱された浅井洌の「信濃の国」が、翌年6月に発表されました。「信濃の国」は、その後も県民に愛され、昭和43年(1968)5月20日に、長野県歌に制定され歌い継がれてきています。
洌は、師範学校を大正7年3月に70歳で退職、さらに嘱託として15年6月まで40年間にわたって師範教育につくしました。国文と書道を教え、文武の素養にたつ人格が深い影響を与えました。
大正15年7月に郷里松本に帰り、大岩家で自適の生活を送りますが、洌のもとを訪ねる卒業生はあとをたたなかったといいます。
昭和13年2月27日、松本市北馬場の大岩家で永眠しました。
関口友愛は、年嘉永5年(1852)に、松本藩士関口友忠の長男として松本堂町に生まれました。幼名は初郎。幼少から漢籍を学び、明治元年(1868)2月、17歳のとき召出されて徒士となります。東山道官軍が信濃に入ってきたとき、松本藩の命を受けて木曽の宮の越に出向いて同軍を迎えています。同年4月には、越後征東軍に従って善光寺まで行っています。同年7月には、中山道和田峠警備軍に編入され出張、駐営しました。明治4年1月、の高井郡暴動には鎮圧軍として従軍しました。
明治7年、保福寺(松本市四賀地区)の学校長となり学校の創始に努めました。地元の『信飛新聞』に、明治8年9月から連載された関口友愛による、筑摩県の永山盛輝権令(いいまの県知事)の教育方針批判の投書が、讒謗率違反となって、友愛は編集者とともに処罰されました。
明治9年に、筑摩県の訟課員に抜擢され、ついで飯田区裁判所判事に任じ、つづいて大町・上田・福島に転じ、14年に大審院属に進み函館控訴院詰となりましたが、職を辞して15年に松本に帰っています。
それより後は、地元の『清籟新誌』『松本新聞』などに寄稿しています。また、浅井洌などと「後凋社」を組織して文学や法律の研究向上をはかっています。「松本繁昌記」を記したのは、この時期のことです。
「松本繁昌記」発行の翌年、明治17年には県会議員に当選、のち副議長に選ばれ、道路開鑿に尽力しました。19年8月には、長野県知事の推薦によって小県郡長に就任、同年3月から小県・上田教育会長となっています。23年5月から更級兼埴科郡長に転じ、25年2月からは東筑摩郡長となり、29年7月まで務めました。任期中には、特に教育の普及につとめ、また運輸交通にも尽力しました。
29年に休職、翌年に台中弁務署長となり単身赴任しますが、32年の官制改革により廃官となったので、以後、松本町会議員として町政に参画しました。
明治38年、塩尻の吉江銀行の支配人となって在職10年、大正3年に職を辞しました。
大正14年5月5日、74歳で亡くなりました。