明治政府は県の配置分合をすすめ、明治9年8月21日に、飛騨国を分離させた筑摩県と「第2次長野県」の両県を統合させました。現在の長野県の誕生です。
筑摩県の信濃分(中南信)は長野県に統合されて(飛騨分は岐阜県に統合)、信濃一円(東北信・中南信)が新しい長野県域となります。
北信・南信は、耕地・戸口ではほぼ伯仲しています。このことが、のちに県庁の北偏を理由とする移庁・分県問題を激化させていくことになります。
ひとつの長野県に統合されて1年3か月後の10年11月に、長野県は、早くも「本国全地ノ中央」にちかい上田町に県庁を移したいという県庁移転の伺いを出します。これに対し内務卿大久保利通は、翌11年3月4日付で理由もつけずに却下しています。大久保はこの回答から70日後の5月15日に暗殺されてしまいます。長野県は、12年1月にも上田への移庁伺いをふたたび内務省に出しますが、内務卿伊藤博文もまた却下しています。
松本出身の県会議員市川量造が、その翌年の13年7月5日、県会議長に「県庁移転ノ建議」を提出しました。これが移庁・分県運動のはじまりです。