この「南北問題」を融和させようとしてつくられた歌が県歌「信濃の国」です。
明治31年(1898)11月、信濃教育会は小学校唱歌教授細目取調委員会を組織し、作詞を委嘱された浅井洌の「信濃の国」などが、翌年6月に発表されました。33年10月25日、長野県師範学校の創立記念運動会に、「信濃の国」の歌が発表されました。作曲した北村季晴(すえはる)のオルガンで女子部生徒が遊戯をしながら披露したといいます。同校の卒業生たちは教壇に立つと「信濃の国」を教え、たちまち全県に普及していきました。県内の各小学校での秋の運動会のフィナーレに歌うのが慣習となり、市町村や地区の運動会でも最後に歌われることが多くなっていきました。
佐久出身の作家井出孫六氏は「『信州学』序説」のなかで、「政治的統合の容易でない県状にてらして、教育によって統合するためには、まず誰にでも口ずさまれる歌でなければならない。歌には不思議な魔力というものがあって、肩組みあって歌える共通の歌のまえには、やれ南北の対立だの分県移庁論などという議論がいつしか溶解していくような力を発揮するものだ」と論じています。
その後も県民に愛され、昭和43年(1968)5月20日に長野県歌に制定され、今日まで県民のあいだで歌い継がれてきています。