小三郎と父勘兵衛、兄柔太郎との手紙が多く残されている。特に、江戸遊学中父勘兵衛から与えられた書状は、親が他郷にある子に対する好個の教訓で、慈父の情が溢れている。
兄柔太郎は昌平黌に学んだ秀才で、江戸や京都へ警護、出兵等しているが、兄柔太郎と小三郎との間で交わされた書簡が多く残されている。
また、佐久間象山との交流を伝える小三郎宛佐久間象山書簡も3通伝えられており、幕末の信州が生んだ英傑二人の交流を知ることができる。
象山は吉田松陰の密航事件に連座して安政元年(1854)から文久2年(1862)にかけて松代に蟄居の身となっていたが、刑が解かれた文久3年に、小三郎が松代藩士白川氏から妻を迎えたことから出会いの機会が生まれ、同年4月に小三郎は松代の象山の家を訪れている。時に象山53歳、小三郎33歳であった。
象山と小三郎は書籍の貸し借りをしているのだが、小三郎から兵事関係の最新の本を貸すことが多かったらしい。そのためか、書簡で象山は20歳も年下の小三郎に対してかなり丁重な物言いをしている。