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目録ID mp000840-200010
文書名 教如消息(石山籠城の決意をつぐ)
文書名(カナ) きょうにょしょうそく
文書名(ローマ字)
別名
別名(カナ)
別名(ローマ字)
文書名(欧文)
文書名に関する注記
差出・作成者
差出・作成者(カナ)
差出・作成者(ローマ字)
宛所 越中惣坊中・惣門徒衆中
宛所(カナ)
宛所(ローマ字)
書写者
書写者(カナ)
書写者(ローマ字)
作成年 (天正八年)五月一五日
作成年終
数量 1点
形状 掛幅
寸法
寸法(縦) 11.6cm
寸法(横) 48.2cm
材質
形態に関する注記 掛幅装
保存状況
縮尺
その他の注記
言語 日本語
ISBN
ISSN
主題
主題(カナ)
主題(ローマ字)
関連する地域・場所
関連する地域・場所(カナ)
関連する地域・場所(ローマ字)
関連する人物・団体
関連する人物・団体(カナ)
関連する人物・団体(ローマ字)
内容年
内容年終
内容
内容(カナ)
内容(ローマ字)
解題・説明 教如(光寿/1558~1614)は顕如(1543~92)の子、本願寺の第12世。文禄元年(1592)、顕如の跡を継いで門主となったが、まもなく隠居を余儀なくされた。しかし、その後も実力を保ち、やがて徳川家康に認められて、慶長8年(1603)、東本願寺を設立させた。 本史料の内容は、天正8年(1580)の本願寺の大坂退去に際して、顕如は既に雑賀(和歌山市)に移っていたが、自分はあくまで大坂に踏み止まることを決意したと述べ、「万端頼み入るばかり」と結んで、越中の坊主衆・門徒衆に支持を求めている。なお、4月上旬から5月下旬にかけて、能登・近江・美濃・甲斐など各地の門徒に同文または同趣旨の文書が届けられており、教如が多数の支持を得ようと努力していた様子がうかがえる。また、6月9日付けの勝興寺第9代住職・顕栄(1509~84)宛ての文書では、越中・加賀に使者を派遣する、と述べているが(勝興寺文書〈影写本〉)、これも教如への同調を訴えるための使者であろう。 この後、大坂に居座る教如に対して信長が武力を発動したため、教如も考えを改めざるを得なくなり、ついに大坂からの退去に同意して、8月2日に雑賀に移ることになる。なお、上述のように教如が各地の門徒に支持を求めたことから、教如を中心とする派閥が形成され、これが東本願寺成立の遠因になったといわれる。(鴨川達夫)
解題・説明(英語)
来歴
来歴(英語)
所蔵機関 勝興寺
原資料の所在地 勝興寺
資料番号 『勝興寺宝物展』図録番号:84、『勝興寺文書目録』箱No.県-〇一九
管理記号
カテゴリ区分 文書・記録
資料種別 文書
資料分類(大分類) 宝物
資料分類(中分類) 文書
資料分類(小分類)
文化財情報 富山県指定文化財
manifest.jsonへのURL
参照データ
関連ページURL 宝物作品解説
関連画像URL
自治体史掲載
出版物・関連資料 『勝興寺宝物展 重要文化財勝興寺本堂落慶記念』(勝興寺ほか 2005)
翻訳元の言語
権利関係・利用条件
原資料の利用条件
権利関係・利用条件に関する注記
緯度・経度・高度に関する注記
DOI
既刊目録名 『雲龍山勝興寺文書目録』(勝興寺文化財保存・活用事業団 2012)
デジタル化の経緯に関する注記
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