目録ID
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mp000860-200010
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文書名
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神保氏張添状
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文書名(カナ)
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じんぼうじはるそえじょう
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文書名(ローマ字)
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別名
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別名(カナ)
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別名(ローマ字)
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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差出・作成者(カナ)
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差出・作成者(ローマ字)
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宛所
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国中諸坊主中
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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(天正一二年)一一月一五日
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作成年終
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数量
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1点
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形状
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掛幅
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寸法
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寸法(縦)
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27.6cm
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寸法(横)
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44.6cm
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材質
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形態に関する注記
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掛幅装
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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内容年終
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内容
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内容(カナ)
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内容(ローマ字)
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解題・説明
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戦国時代、勝興寺は北陸を代表する本願寺派寺院の地位を確立し、有力な一向一揆勢として、上杉謙信、武田信玄(1521~73)、織田信長ら戦国武将たちの対立の間にあった。天正6年(1578)に謙信が没すると、越中には西から信長が勢力を伸ばし始める。信長配下の佐々成政(1539~88)は、越前府中(現・福井県越前市)へ入った後の同8年(1580)に越中へ派遣され、同10年(1582)には富山城主となる。成政は当初守山城(高岡市)に入り、城主・神保氏張を与力として支配の一端を担わせたという。神保氏張(1528~92)は越中神保氏庶家で、父は氏重。宗五郎と称する。本家長職(ながもと)系統との系譜上の関係については不明。長職の重臣で弘治・永禄期(1555~70)に氷見方面を支配した寺島職定(てらしまもとさだ)(槻尾(つきお)氏)に擁立され、守山に在城。能登畠山家臣団のうちの第3グループ長氏(第1は遊佐氏、第2は温井氏)と昵懇となり、その関係で織田方となり、佐々成政が越中に入部すると与力となる。そして成政の娘を嫡子氏則の妻に迎えて成政の家老となった。成政の肥後転封にも従ったが、成政切腹後は浪々期を経て徳川家旗本となった。所領地だった下総国香取郡伊能村(現・千葉県成田市)宝応寺に墓がある。なお、『寛政重修諸家譜』に「実は(能登)畠山左衛門佐義隆が二男」とあり、また『北越軍談』に畠山義則(義綱)の兄とするが、その是非は不明である。 本史料は、勝興寺の古国府での坊舎建立の確定を示す史料であるが、同時に織田方による旧一向一揆方掌握・被官化を告げる最も早い例である。氏張の役割の大きさがうかがえる。なお、本文末の専福寺は黒河専福寺(現・高岡市)であろう。越中一向一揆方と武将間の交渉に携わった僧だったと思われる。(久保尚文)【参考文献】『高岡の名宝展』高岡市美術館,平成21年(2009)
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解題・説明(英語)
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来歴
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来歴(英語)
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所蔵機関
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勝興寺
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原資料の所在地
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勝興寺
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資料番号
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『勝興寺宝物展』図録番号:86、『勝興寺文書目録』箱No.県-〇二二
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管理記号
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カテゴリ区分
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文書・記録
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資料種別
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文書
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資料分類(大分類)
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宝物
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資料分類(中分類)
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文書
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資料分類(小分類)
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文化財情報
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富山県指定文化財
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manifest.jsonへのURL
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参照データ
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関連ページURL
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宝物作品解説
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関連画像URL
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自治体史掲載
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出版物・関連資料
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『勝興寺宝物展 重要文化財勝興寺本堂落慶記念』(勝興寺ほか 2005)
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翻訳元の言語
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権利関係・利用条件
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原資料の利用条件
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権利関係・利用条件に関する注記
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緯度・経度・高度に関する注記
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DOI
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既刊目録名
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『雲龍山勝興寺文書目録』(勝興寺文化財保存・活用事業団 2012)
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デジタル化の経緯に関する注記
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