解題・説明
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武田信玄(晴信/1521~73)は、東国を代表する戦国武将の一人として名高い。甲斐を本拠とし、信濃・上野・駿河にも版図を広げた。越後の上杉謙信(輝虎)を好敵手としたことはよく知られているが、勝興寺・瑞泉寺など越中の本願寺系寺院にとっても、謙信は警戒すべき危険な存在であった。このため、本願寺第11世・顕如(1543~92)を含めた三者の間に、謙信に対抗する目的でのやり取りがしばしば行われた。 本史料はその一例で、永禄11年7月に信玄が勝興寺第9代住職・顕栄(1509~84)に届けた書状である。信玄の記すところによれば、これに先立って越中の情勢に変化があり、金山(かなやま)(魚津市)の椎名康胤(しいなやすたね)が反上杉の立場を明らかにして、顕如・信玄に誼を通じてきたという。これを受けて、信玄は大坂の顕如に玄東斎(げんとうさい)(日向宗立)を、金山の康胤には長延寺(ちょうえんじ)(師慶)を急派し、今後の戦略を協議せんとした。そのことを顕栄に報せて、長延寺と接触するように求めたのが、この書状である。 玄東斎や長延寺、さらに文末に見える八重森(やえもり)(家昌)は、いずれも武田氏の外交を担った実務家である。とりわけ長延寺は、越中との関わりが深く、信玄や顕如の指示を受けて活動した。信玄が本願寺に届けた書状の中に、本史料と同じ7月16日付けで、ようやく康胤が行動を起こした、ついては越中にいる長延寺に然るべき指示を与えてやって欲しい、と述べたものがある(村田家文書〈広島県〉)。日付の点でも内容の点でも、まさに本史料と同時に書かれたものであろう。大坂に派遣された玄東斎が、これを携えていったものと思われる。 なお、文末に近い部分では、越後の本庄繁長(ほんじょうしげなが)がやはり反上杉の立場を明らかにしたが、これに呼応して近々北進するつもりである、と述べている。信玄はその通りに行動したらしく、8月中旬、上杉側が飯山(長野県)付近に厳戒態勢を敷いたことが知られている。ただし、上杉側では信玄の真意を見破っており、繁長に調子を合わせただけでさして本気ではあるまい、などと述べている(「歴代古案」巻4)。(鴨川達夫)
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