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目録ID mp300012-200030
文書名 武田信玄・同勝頼連署書状
文書名(カナ) たけだしんげん どう かつよりれんしょしょじょう
文書名(ローマ字)
別名
別名(カナ)
別名(ローマ字)
文書名(欧文)
文書名に関する注記
差出・作成者
差出・作成者(カナ)
差出・作成者(ローマ字)
宛所 勝興寺
宛所(カナ)
宛所(ローマ字)
書写者
書写者(カナ)
書写者(ローマ字)
作成年 (元亀三年)一〇月朔日
作成年終
数量 1点
形状
寸法
寸法(縦) 11.1cm
寸法(横) 46.3cm
材質
形態に関する注記
保存状況
縮尺
その他の注記
言語 日本語
ISBN
ISSN
主題
主題(カナ)
主題(ローマ字)
関連する地域・場所
関連する地域・場所(カナ)
関連する地域・場所(ローマ字)
関連する人物・団体
関連する人物・団体(カナ)
関連する人物・団体(ローマ字)
内容年
内容年終
内容
内容(カナ)
内容(ローマ字)
解題・説明 武田信玄(1521~73)とその子・勝頼(1546~82)が連署して、勝興寺第9代住職・顕栄(1509~84)に届けた書状である。本史料も上杉謙信への対抗を目的とした、信玄・越中間の交渉の一例である。 この年の8月、謙信は自ら越中に攻め込み、18日には富山の至近に陣を布き、その後富山に圧力を加え続けた。この間、勝興寺をはじめとする越中の反上杉方は、信玄が兵を北に進めて、謙信の本拠たる越後を衝くことを期待したと思われる。しかし、この頃信玄の関心は南を向いており、遠江・三河方面に進出して、徳川家康・織田信長と対決する気構えであった。このため、越中の救援に動くことはなかった。その言い訳のために書かれたのが、この書状である。 具体的な内容は、①遠江・三河作戦に時間を取られ、越後作戦は遅れてしまった。②ようやく時間ができたので行動を起こしたが、途中で病気に罹り、進むことができなくなった。③そうこうしているうちに謙信は本国に戻り、戦機は去ってしまったので、仕方なく陣を引いた、となっている。その上で、今は病気も平癒したので、改めて父子ともに出馬するつもりである、と述べている。②の「行動を起こした」というのが本当のことであるか、口先だけの言い逃れであるかははっきりしないが、信玄の死がこれよりわずか半年後であることからすれば、「病気に罹り、進むことができなくなった」というのは本当かもしれない。 本史料の最大の見どころは、差出書が信玄・勝頼の連署になっていることである。原本が現存しているものとしては、本史料が唯一の例である。原本は失われ内容の筆録のみが伝わる場合を含めても、他にもう一例が知られているに過ぎず(「武家事紀」巻33)、極めて珍しいものといえる。 信玄が勝頼との連署を選んだのは、上述のような信玄の健康状態と無関係ではなかろう。この書状を書いた直後、信玄は再び遠江・三河に向けて出陣しており、顕栄に対する言明とは裏腹に、ただちに越後作戦を再開するつもりはなかったものとみられる。越後作戦は、信玄の考えでは次期あるいは次々期の作戦であったのだろう。しかし、その頃には自分はもうこの世にはいない、少なくとも陣頭指揮はできない、そのような自覚もあったに違いない。自分が倒れても勝頼が責任を持って作戦を引き継ぐ、この点を顕栄に明示するために、勝頼にも連署させたのではないだろうか。(鴨川達夫)
解題・説明(英語)
来歴
来歴(英語)
所蔵機関 勝興寺
原資料の所在地 勝興寺
資料番号 『勝興寺文書目録』箱No.県-〇一二
管理記号
カテゴリ区分 文書・記録
資料種別 文書
資料分類(大分類) 文書目録
資料分類(中分類) 〇 富山県指定文化財 勝興寺文書
資料分類(小分類) No.〇〇〇 県指定文化財-一二
文化財情報 富山県指定文化財
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参照データ
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自治体史掲載
出版物・関連資料 『勝興寺宝物展 重要文化財勝興寺本堂落慶記念』(勝興寺ほか 2005)
翻訳元の言語
権利関係・利用条件
原資料の利用条件
権利関係・利用条件に関する注記
緯度・経度・高度に関する注記
DOI
既刊目録名 『雲龍山勝興寺文書目録』(勝興寺文化財保存・活用事業団 2012)
デジタル化の経緯に関する注記
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