解題・説明
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顕如(光佐/1543~92)は本願寺の第11世。織田信長の時代に門主を務め、大坂に拠って信長に激しく抵抗した(いわゆる「石山合戦」)。当初は武田信玄(1521~73)・浅井長政(1545~73)・朝倉義景(1533~73)などと結んで戦ったが失敗に終わり、後には西国の実力者・毛利輝元と組んで抵抗を続けたが、天正8年(1580)4月、ついに信長に屈した。 本史料は、信長に屈した直後、勝興寺第9代住職・顕栄(1509~84)に、大坂から退去して雑賀(和歌山市)に移ったことを報せたものである。4月15日付になっているが、文中に「十日に雑賀に着いた」とあるから、その5日後に書かれたわけである。この文書とは別に、越中の一般門徒宛ての文書が用意され、それぞれに本願寺の坊官下間頼廉・同仲之連署の副状が付いて、4通1組で届けられたものと思われる。しかし、副状はいずれも現存していない。 これに先立つ数年間、顕如は上述のように毛利輝元らと組んで信長への抵抗を続けてきたが、この天正8年に差しかかる頃にはほとんど孤立無援の状態に陥っていた。そこで正親町天皇が間に入り、両者の折り合いをつけることになった。この時の信長の意向について、顕如はこの文書の中で、「(われらを)大坂から退出させることにつきる」と表現している。そしてこれを受け入れる以外の道は、顕如には最早残されていなかった。こうして閏3月5日に交渉は妥結し、4月9日、顕如は大坂を去ったのである。交渉の妥結を顕如は「和平」と表現しているが、実態としては明らかに信長に対する降伏であった。ちなみに信長側では、本願寺を「赦免した」と表現している(「南行雑録」巻一など)。 上述のように、一般門徒宛ての文書が別に用意され、詳しいことはそちらを参照するように、またその内容を門徒に読み聞かせてやるように、と指示している。(鴨川達夫)
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