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目録ID mp300022-200030
文書名 神保氏張添状
文書名(カナ) じんぼうじはるそえじょう
文書名(ローマ字)
別名
別名(カナ)
別名(ローマ字)
文書名(欧文)
文書名に関する注記
差出・作成者
差出・作成者(カナ)
差出・作成者(ローマ字)
宛所 国中諸坊主中
宛所(カナ)
宛所(ローマ字)
書写者
書写者(カナ)
書写者(ローマ字)
作成年 (天正一二年)一一月一五日
作成年終
数量 1点
形状
寸法
寸法(縦) 27.6cm
寸法(横) 44.6cm
材質
形態に関する注記
保存状況
縮尺
その他の注記
言語 日本語
ISBN
ISSN
主題
主題(カナ)
主題(ローマ字)
関連する地域・場所
関連する地域・場所(カナ)
関連する地域・場所(ローマ字)
関連する人物・団体
関連する人物・団体(カナ)
関連する人物・団体(ローマ字)
内容年
内容年終
内容
内容(カナ)
内容(ローマ字)
解題・説明 戦国時代、勝興寺は北陸を代表する本願寺派寺院の地位を確立し、有力な一向一揆勢として、上杉謙信、武田信玄(1521~73)、織田信長ら戦国武将たちの対立の間にあった。天正6年(1578)に謙信が没すると、越中には西から信長が勢力を伸ばし始める。信長配下の佐々成政(1539~88)は、越前府中(現・福井県越前市)へ入った後の同8年(1580)に越中へ派遣され、同10年(1582)には富山城主となる。成政は当初守山城(高岡市)に入り、城主・神保氏張を与力として支配の一端を担わせたという。神保氏張(1528~92)は越中神保氏庶家で、父は氏重。宗五郎と称する。本家長職(ながもと)系統との系譜上の関係については不明。長職の重臣で弘治・永禄期(1555~70)に氷見方面を支配した寺島職定(てらしまもとさだ)(槻尾(つきお)氏)に擁立され、守山に在城。能登畠山家臣団のうちの第3グループ長氏(第1は遊佐氏、第2は温井氏)と昵懇となり、その関係で織田方となり、佐々成政が越中に入部すると与力となる。そして成政の娘を嫡子氏則の妻に迎えて成政の家老となった。成政の肥後転封にも従ったが、成政切腹後は浪々期を経て徳川家旗本となった。所領地だった下総国香取郡伊能村(現・千葉県成田市)宝応寺に墓がある。なお、『寛政重修諸家譜』に「実は(能登)畠山左衛門佐義隆が二男」とあり、また『北越軍談』に畠山義則(義綱)の兄とするが、その是非は不明である。 本史料は、勝興寺の古国府での坊舎建立の確定を示す史料であるが、同時に織田方による旧一向一揆方掌握・被官化を告げる最も早い例である。氏張の役割の大きさがうかがえる。なお、本文末の専福寺は黒河専福寺(現・高岡市)であろう。越中一向一揆方と武将間の交渉に携わった僧だったと思われる。(久保尚文)【参考文献】『高岡の名宝展』高岡市美術館,平成21年(2009)
解題・説明(英語)
来歴
来歴(英語)
所蔵機関 勝興寺
原資料の所在地 勝興寺
資料番号 『勝興寺文書目録』箱No.県-〇二二
管理記号
カテゴリ区分 文書・記録
資料種別 文書
資料分類(大分類) 文書目録
資料分類(中分類) 〇 富山県指定文化財 勝興寺文書
資料分類(小分類) No.〇〇〇 県指定文化財-二二
文化財情報 富山県指定文化財
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参照データ
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自治体史掲載
出版物・関連資料 『勝興寺宝物展 重要文化財勝興寺本堂落慶記念』(勝興寺ほか 2005)
翻訳元の言語
権利関係・利用条件
原資料の利用条件
権利関係・利用条件に関する注記
緯度・経度・高度に関する注記
DOI
既刊目録名 『雲龍山勝興寺文書目録』(勝興寺文化財保存・活用事業団 2012)
デジタル化の経緯に関する注記
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