解題・説明
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戦国時代、勝興寺は北陸を代表する本願寺派寺院の地位を確立し、有力な一向一揆勢として、上杉謙信、武田信玄(1521~73)、織田信長ら戦国武将たちの対立の間にあった。天正6年(1578)に謙信が没すると、越中には西から信長が勢力を伸ばし始める。信長配下の佐々成政(1539~88)は、越前府中(現・福井県越前市)へ入った後の同8年(1580)に越中へ派遣され、同10年(1582)には富山城主となる。成政は当初守山城(高岡市)に入り、城主・神保氏張を与力として支配の一端を担わせたという。神保氏張(1528~92)は越中神保氏庶家で、父は氏重。宗五郎と称する。本家長職(ながもと)系統との系譜上の関係については不明。長職の重臣で弘治・永禄期(1555~70)に氷見方面を支配した寺島職定(てらしまもとさだ)(槻尾(つきお)氏)に擁立され、守山に在城。能登畠山家臣団のうちの第3グループ長氏(第1は遊佐氏、第2は温井氏)と昵懇となり、その関係で織田方となり、佐々成政が越中に入部すると与力となる。そして成政の娘を嫡子氏則の妻に迎えて成政の家老となった。成政の肥後転封にも従ったが、成政切腹後は浪々期を経て徳川家旗本となった。所領地だった下総国香取郡伊能村(現・千葉県成田市)宝応寺に墓がある。なお、『寛政重修諸家譜』に「実は(能登)畠山左衛門佐義隆が二男」とあり、また『北越軍談』に畠山義則(義綱)の兄とするが、その是非は不明である。 本史料は、勝興寺の古国府での坊舎建立の確定を示す史料であるが、同時に織田方による旧一向一揆方掌握・被官化を告げる最も早い例である。氏張の役割の大きさがうかがえる。なお、本文末の専福寺は黒河専福寺(現・高岡市)であろう。越中一向一揆方と武将間の交渉に携わった僧だったと思われる。(久保尚文)【参考文献】『高岡の名宝展』高岡市美術館,平成21年(2009)
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