九州国立博物館副館長 宮島新一
富山・高岡の名刹といえば、瑞龍寺とならんで勝興寺をあげなくてはならないだろう。ともに前田家との縁が深く、格式がとりわけ高い。前田家の庇護を受けて建てられた主要な建物はいずれも重要文化財の指定を受けている。とくに勝興寺の本堂は西本願寺の本堂を踏襲したとされ、破格の規模を誇る。これは前田家十一代藩主の治脩の寄進になるもので、安永四年(一七七五)に起工している。なお、治脩は勝興寺に入寺したあと還俗して藩主を継いだという経歴の持ち主である。
近年、瑞龍寺につづいて勝興寺の建造物の修理が完了して面目を一新した。それを期に寺宝が公開されるという。瑞龍寺には宝物館が備わっているため、随時、目にすることができたが、勝興寺が伝える宝物については、容易に目にすることはかなわなかった。同じ前田家の庇護を受けた勝興寺と瑞龍寺ではあるが、瑞龍寺は禅宗、勝興寺は浄土真宗というように宗派がちがうこともあって、二つの寺に収蔵される絵画類の性格はかなり異なっている。大ざっぱに言うと、瑞龍寺では水墨画と中国画が中心となっているのに対して、勝興寺には華やかな彩色画が多い。
筆者は、かつて、勝興寺の「洛中洛外図」屏風を重要文化財に指定するために事前の調査にうかがったことがある。世に「洛中洛外図」屏風は数多く伝わるが、それまでに指定されていたのは、旧町田家本(国立歴史民俗博物館)と旧上杉本(米沢市博物館)と、又兵衛風の特異な画風と構図をもつ「船木屏風」(東京国立博物館)と通称される、わずか三図だけであった。世相や風俗を知るうえで絶好の絵画史料である「洛中洛外図」屏風の重要性を広く知ってもらうためには、指定をもっと積極的に進める必要性があった。そこで、旧町田家・旧上杉本とともに室町時代末期の制作になる国立歴史民俗博物館乙本に加えて、その後の展開のメルクマールになる勝興寺本と、岡山の林原美術館本の指定を行なった。同時に、旧上杉本を国宝に格上げすることによって、「洛中洛外図」がいかに貴重であるかを世間に伝えようとしたつもりであった。
その当時は勝興寺の文化財の調査が進んでいなかったために、寺宝の全貌を知るよしもなかった。その後、建造物修理にともなって原口志津子氏による寺宝の調査が綿密に行なわれ、すでに報告書も出版されている。今回はその成果を実際に目にするまたとない機会になることと思う。
浄土真宗で何よりも重要なのは、宗祖である親鸞上人の肖像画と絵伝であり、これを欠かすことはできない。勝興寺に伝わる上人の肖像画は礼拝像にふさわしく、正面を向いて数珠を握る堂々とした構図をとっている。なかなか年代判定が難しい作品で、江戸時代初期を想定するのが一般の意見だろうが、もう少しさかのぼる可能性も考えられる。また、四幅からなる掛軸の絵伝は、永正十六年(一五一九)に描かれたことが裏書きからわかる貴重な作品である。ちょうどこの頃から勝興寺の名が現れるようになる時期にもあたる。
掛軸形式の親鸞上人絵伝は、鎌倉時代後期になってから、絵巻の制作に続くようにして描かれている。室町時代に入っていったん衰えるが、蓮如が活躍する室町時代中期から再び盛んに描かれるようになった。本願寺教団を支えてきた有力な門徒地域にふさわしく、北陸地方にはいくつか絵伝が残されているが、蓮如の四男である蓮誓が住職になった勝興寺にも一組が伝えられている。本図は、この地方に伝わる中世の親鸞上人絵伝の中では後期に属し、蓮如没後の作になるもので、戦国時代に一大勢力を形成していた勝興寺の財力と信仰の強さを示すところとなっている。
以下に主な寺宝についてふれてゆくことにするが、多くの真宗寺院では勝興寺のように、美術的な作品が伝わることはきわめて珍しい。真宗寺院本来の性格からしてもそれが普通で、本来は質素でなくてはならないはずなのが、勝興寺は本山との結びつきが強いがために、寺院らしからぬ優美な調度品が整っている。
まず、筆頭にあげるべきは重要文化財の「洛中洛外図」屏風である。この屏風は二十代住職の摂常の室として入寺した鷹司関白准后息女の輿入れ道具と伝えている。しかし、制作年代は桃山時代にさかのぼるものなので、長く鷹司家に伝来してきた屏風であろう。おそらく、都を遠く離れることになった息女が華やかな都の有様を偲ぶために持参したものと考えられる。初期における「洛中洛外図」屏風の主な需要層が、地方の大名であったことがそうした考えの裏づけとなる。
勝興寺本は関ヶ原の合戦後、徳川家康が京都の拠点として築いた、五層の天守閣を擁する二条城が一隻の大きな部分を占めており、もう一隻の端や隅っこに描かれる内裏や、豊国神社や、秀頼が再建した大仏殿を圧するように聳えている。そこには世が徳川家に移っていることを視覚的にわからせようとする意図がはっきりと認められる。以後、この構図が定型化してゆくのであるが、勝興寺本はそのごく初期の作として高く評価されている。
次にとりあげるべきは「日月屏風」である。これは非常に古い伝統をひく主題で、すでに中国で隋代末唐代初めの石製屏風に日月が彫られている例が知られている。その主題は風俗図であるが、「日月屏風」はこうした風俗図にかぎらず、山水図、花本図、名所図などに金色の太陽と銀色の月を配した図をさす。その意味するところははっきりとしないが、「月日」そのものが時間の経過を意味することと、四季を表現する主題にともなう例がほとんどなので、時のうつろいをより強調しようとして、画中に「日月」を描き入れたものと推測しておきたい。今のところもっとも初期の作例としては、当麻寺奥院に伝わる「十界図」屏風で、南北朝期にさかのぼる。「十界図」自体は仏教の教えを絵画化しかものであるが、実体は風俗画に近い。
本図は花木に日月を配した図の一例で、他には大英博物館にもう一例が残されている程度で数は少ない。ここでは桜と紅葉とが対となっており、それぞれに籬や網代垣が添えられた優美な図柄となっている。貴族化した真宗寺院の調度としていかにもふさわしい。この屏風は「日月屏風」の中では比較的年代が新しく、江戸時代前期の制作になるだろう。
最後に加藤遠澤筆の「四季耕作図巻」をあげておこう。加藤遠津(一六四六~一七三〇)の名はあまり知られていないが、狩野探幽の門下では抜きんでた技量の持ち主で、会津藩の御用絵師になっているほどの名手である。加藤遠洋は尾形光琳とわりあい近い時代を生きていたことになるが、この絵巻は享保九年(一七二四)に描かれているので、数えで七十九歳の作ということになる。筆遣いはそうした年齢を感じさせないほどみごとな腕前を見せている。絹地に描かれているので身分の高い人が制作を命じたと思われ、四季おりおりの農耕作業が中心となってはいるか、花見の宴や琵琶法師も添景として付け加えられている。とくに後者は絵師の古風な教養をしのぼせる。こうした添景から見て、この絵巻は為政者に農耕の大切さを諭すために描かれたものではなさそうである。むしろ、伝統的な農作業を四季おりおりの花々とならぶ、季節の風物として見る貴族的な眼差しを感ずる。
ほかにも都で制作されたと思われる作品がいくつか伝わるが、上述の三点ともどもしだいに貴族化を強めていった本願寺との強い結びつきを物語るものばかりである。
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