東京大学史料編纂所助教授 末柄 豊
勝興寺の開基は、本願寺八世蓮如の十男実悟が記すところによれば、加賀二俣本泉寺(金沢市)如乗の室・勝如尼だといい(『蓮如上人拾塵鈔』)、蓮如の孫顕誓(四男蓮誓の子) の記すところでは、蓮如二男の蓮乗であったという(『反古裏書』)。勝如尼の夫如乗は、本願寺六世巧如の三男で、井波瑞泉寺(南砺市)に住し、ついで本泉寺を創建した。勝如尼は、夫の没後、娘如秀の婿として蓮如二男蓮乗を迎え、瑞泉・本泉両寺の住持を兼ねさせるとともに、両寺の中間に勝興寺の前進となる土山坊(南砺市)を設けたのであり、両説ともに一面の真実を伝えたものといえる。土山坊の創建は、一四七〇年前後のことであったようだ。
ほどなく蓮乗から土山坊を譲られた弟の蓮誓は、その在所が山深いことから、坊舎を高本場(南砺市)に移したが、自身は文明一七年(一四八五)以前に加賀山田光教寺(加賀市)に転じている。蓮誓に充てられた文書の多くは、同人とともに光教寺に移ったと思われ、勝興寺には一通しか残っていない。その一通こそ、蓮如の書状であり、『勝興寺文書』のなかで最も古い文書なのである(七七、括弧内の洋数字は、本図録における作品番号)。
蓮誓にかわって高木場坊に住持したのは、蓮誓二男の実玄であった。永正二(年(一五一九)火災に遭ったのを契機に、実玄は寺地を安養寺村(小矢部市)に移動したが、それ以前に、本願寺九世実如から勝興寺という寺号を与えられていた。その後、光教寺の影響力を払拭し、本願寺宗主との関係を強めることで、越中における真宗教団を領導する立場になった勝興寺は、瑞泉寺とともに、越中一向一揆のなかで中核的な役割を果たすことになる。
『富山県史』史料編Ⅱ・中世(一九七五年刊行)が指摘して以来、『勝興寺文書』のうち永正一四年以前の年記を有する文書には、後年に偽作されたものの存在することが明らかになっている。これらは、一七世紀前半までに作成されたと推測され、より早い時期から本願寺宗主とのあいたに強い結びつきが存在したことを示し、一向一揆解体後の越中の真宗教団内で、勝興寺の指導的な地位を確立・強化するためのものであったと考えられている。
永禄八年(一五六五)本願寺一一世顕如が武田信玄と盟約を結んだことにより、越中一向一揆は越後の上杉謙信との対峙を余儀なくされた。間もなく両者は戦火を交えることになる。同一一年、信玄は勝興寺顕栄(実玄の子)に書状を送り、越中金山(魚津市)の椎名康胤の許に送った使者と接触することを求めている(七九)。また、元亀三年(一五七二)に信玄とその子勝頼とが連署して送った書状は、越中を攻めていた謙信の背後を衝くように期待されたにもかかわらず、出兵が遅延していることを釈明したものである(八〇)。信玄・勝頼の連署状で正文として伝わるのは、全国的にみてもこの一点のみで、きわめて珍しい文書だといえる。
ところが、天正元年(一五七三)、信玄が病没し、朝倉・浅井両氏を相次いで滅ぼした織田信長が、越前さらには加賀まで侵攻してきたことで、事態は急展開を迎える。同四年、本願寺と和議を結んだ謙信は、能登にすすんで織田方を攻撃するに至ったのである。出兵を祝した顕栄に対し、能登の情勢を伝えた謙信の書状は同年末のものである。残念ながら、この書状は現在所在不明であるが、後述する『松雲公採集遺編類纂』によって内容を知ることができる。
元亀元年に始まった石山合戦は、本願寺が信長の対抗勢力と連携したことによって、越中にも多大な影響を及ぼしていた。そして、天正六年、謙信が急逝すると、信長はいよいよ越中平定を目指し、神保長住を送り込んできた。一方、同八年閏三月、五年に及んだ大坂籠城戦の末、顕如は信長との和睦に踏み切ることになる。大坂からの退去が条件であり、実質的な敗北であった。四月、紀伊雑賀(和歌山市)に移った顕如は、顕栄および越中の坊主衆・門徒衆に充て、自らの退去を報じた(八二・八三)。ところが、五月、顕如の子教如は大坂に残って抗戦することを訴え、越中の坊主衆・門徒衆に支援を求めている(八四)。教如派の抗戦の動きがあったため、柴田勝家は和睦後ではあるが加賀の制圧をはかり、加賀一向一揆の一部は越中に逃れた。教如は、八月には大坂での抗戦をあきらめて雑賀に移ったが、間もなく所在不明となる。奥美濃から飛騨に潜伏したと考えられている。
このような状況下、越中一向一揆は、加賀から逃れた一揆勢を糾合し、上杉景勝と結んで織田方との戦いを継続した。しかし、同九年、佐々成政が越中に侵攻すると、これに呼応した木船城(福岡町)主石黒道之の焼討ちに遭い、勝興寺は退転に及んでしまう。住持顕栄は、顕如のあった紀伊鷺森(和歌山市)に逃れ、同一二年、和泉貝塚(貝塚市) で没している。
本能寺の変後、羽柴秀吉と争った柴田勝家は滅ぼされたが、勝家についた佐々成政は赦されて越中一国の領有を認められた。ところが、天正一二年四月、織田信雄・徳川家康が小牧・長久手において秀吉と戦端を開くと、九月、これに応じた成政は、加賀の前田利家を攻めるに及んでいる。一一月、越中国内に残る一向一揆の懐柔を企図した成政は、勝興寺の還住を許して守山(高岡市)に寺地を与えた(八五)。成政の属将神保氏張は、これをうけて越中坊主衆に堂舎建立への協力を命じている(八六)。さらに翌月、氏張が勝興寺に与えた制札では、古国府の地を寄進し、寺内の所役を免除するに至る(八七)。これにより、勝興寺は現在地に移転したのである。
同一三年七月、秀吉が敵対を続ける成政を討つため越中に向かうことが明らかになると、当時在京していた勝興寺顕幸(顕栄の子)は、いち早く秀吉に通じ、寺内に対する制札の発給を受けるとともに(八八)、先導して加賀に下向する。八月、成政は降伏し、新川郡を除く越中三郡は前田利長(初名利勝)の領地となった。勝興寺は、閏八月には利長から制札を下されている(八九)。
利長は、天正一六年、寺領として一〇〇俵の地を寄進したのをはじめ、勝興寺に手厚い庇護を加えた。晩年を高岡城に過ごしたこともあり、『勝興寺文書』には利長の書状がすこぶる多く、二四通に及んでいる。慶長一三年(一六〇八)、江戸から帰洛の途次に勝興寺に止宿した西本願寺准如は、顕幸の孫(当時八歳)の得度に立ち会い、准教の名を与え、連枝並の座配(門主一族の待遇)を許可した。この時、利長が勝興寺に送った書状によれば、准如は富山城にも立ち寄ったようだ(九二)。利長から家督を継いだ弟利常(初名利光)も、元和四年(一六一八)に寺領二五石を加増している(九五)。
正保四年(一六四七)、准如六男の良昌が勝興寺に入ると、室には利常の養女が迎えられた。これにより、越中における勝興寺の立場は、本願寺・前田家の両方から堅固に支えられるものとなった。その後も、西本願寺や前田家からの入寺かおり、妻室も鷹司家や前田家から迎えられている。勝興寺は、江戸時代を通じ、西本願寺の連枝寺院としての格式を保ち、それに相応しい宸翰類や古筆手鑑などをも現在まで伝えているのである。
富山県内に伝存する中世文書は、他府県にくらべて非常に少なく、天正年間までの文書が四〇通をこえる『勝興寺文書』は希有な存在だといえる。また、県内に伝来した文書に鎌倉時代にさかのぼる文書は知られず、最も古い文書は、『芦峅寺文書』のなかの正平八年二三五三)五月二五日桃井直信書下だといわれている。一方、『勝興寺文書』のなかで最も古い文書は、一四八〇年代前半のものと考えられる蓮如書状である。同寺の創建自体が一四七〇年前後のことなので、文書の古さという点で他に一歩を譲らざるを得ないのは当然だろう。
しかし、視点を一六世紀後半に移せば、『勝興寺文書』は、越中の戦国時代を描くうえで必須の文書群となっている。これは、越中一向一揆において勝興寺の果たした役割の大きさに対応しているとみるべきである。石山合戦終結後についても、佐々成政、羽柴秀吉、前田利長という権力者の発給文書が揃い、この時期の越中の転変をよく示すものになっている。してみると、『勝興寺文書』は、越中を代表する中世文書群がといっても過言ではなかろう。
『勝興寺文書』の有する価値は、すでに明治時代から注目され、一度ならず調査が行われてきた。ひとつは、旧加賀藩主前田家が治世の記録を残すため史料の採訪・編纂を行う機関として設けた前田家編輯方による調査である。その成果は、『越中古文書』第八巻としてまとめられている。重複が多く、全文を掲載しないものもあるが、文書等のべ一二四点を載せ、現在は所在が確認できない細川晴元や上杉謙信の書状も見える。また、その職員であった森田柿園の編になる『松雲公採集遺編類纂』にも勝興寺所蔵の文書等一九点が収められている。同書でしか確認できない謙信書状のあることは前述した。
いまひとつの調査は、明治三〇年(一八九七)、東京帝国大学史料編纂掛によるものである。『大日本史料』の編纂材料を蒐集するため、新潟・富山両県下で行った史料調査の一環であった。その成果は、影写本『勝興寺文書』二冊にまとめられ、文書等五三点を収めている。このなかにも現在所在不明の文書がある。『勝興寺文書』の全貌を知るためには、これらの精査が必須だといえよう。
その後、『富山県史』の編纂にかかる調査を前提として、一九七五年、勝興寺の古文書のうち一八〇点が富山県文化財に指定されて目録が作成されたことで、『勝興寺文書』への関心は再度高まることになった。なお、その後に見出されたため未指定となっている古文書のなかにも、今回出品された勝興寺の造営について越中一国へ勧進をもとめた西本願寺良如の書状(九六)など、注目すべき史料かおる。
ひとつ残念なことは、県文化財指定後に行われた修補の過程で、裏打ちを施す際に文書の四周の余白が裁ち落とされるなど、その原形を損じた場合のあることがあげられる。今日、文書の内容とともに、料紙の紙質や折りたたみ方など、文書の形態に籠められた情報の重要性が注目されているだけに非常に惜しまれる。楠瀬勝氏の言われるごとく「今後の誡め」とすべき点であろう(後述『勝興寺古文書集』の跋)。
この県文化財指定にともなう『勝興寺文書』への関心の高まりは、一九八三年に至って大きな成果を生み出すこととなる。それは、高岡市立中央図書館長(当時)岫順史氏の編にかかる『勝興寺古文書集』の刊行である(一九八八年に補訂版を刊行)。同書は、指定がなされた一八〇点とその後に見出された一点とをあわせた一八一点のうち一八〇点について釈文を載せ、明治期の文書一一点を除いた一七〇点については写真図版を掲げている。大半は同書によって初めて公刊されたものであり、研究の基盤を確立したものとして高く評価できる。
また、同年、『富山県史』の編纂に従事されていた久保尚文氏の著書『勝興寺と越中一向一揆』が刊行されたことも特筆すべきである。同書は、広範な史料蒐集と丹念な史料批判にもとづく堅実な研究成果であり、勝興寺の歴史に関する研究を新たな段階にすすめたものだといえる。これらの業績を前提としつつ、今回の本堂修理事業の完成を契機に、『勝興寺文書』ひいては同寺の歴史に対する理解がさらに深まることを願う次第である。
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