釈実玄真影(八代)(しゃくじつげんしんえい) [目録を見る] [ 宝物解説へ ]
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画中に「釋實玄」とある、勝興寺第8代住職・実玄の肖像である。墨染の衣を着し、両手で念珠を持って高麗縁の上畳に座している。裏書は、天文14年(1545)に本願寺第11世・顕如(1543~92)によってなされている。願主は、弘治元年(1555)に住職を継職した第9代住職・顕栄(1509~84)ではなく、実玄なき後勝興寺を住持し、43歳にて没した次男の玄宗である。
実玄は、文明18年(1486)に生まれた。父は加賀光教寺・蓮誓(1455~1521)、母は壽光院如専(?~1514)である。越中高木場の坊を父より譲られ住持。永正16年(1519)の火災の後、安養寺と改め再興。同年本願寺第9世・実如(1458~1525)が一門一家の制度を定めた時、一代限りの一門身分となった。享禄4年(1531)、大小一揆(享禄の錯乱)において、蓮誓を支持しなかったことにより、教団内で発言力を増してゆき、越中真宗教団を井波瑞泉寺と共に支配した。天文14年3月15日没す。
永正14年(1517)、実玄の代に、佐渡の順徳院御願「殊勝誓願興行寺」の寺号を継承して、勝興寺を称するようになるという。裏書に、永正16年、本願寺実如より下付されたことを記す「親鸞聖人絵伝」に初めて「勝興寺」の名が見えるようになる。
この勝興寺の寺号の由来は、『雲龍山勝興寺系譜』(明治27年)によれば以下のようなものである。順徳天皇の第3皇子・彦成王(ひこなりおう)が、天台宗に入って成尊と称し、さらに親鸞の弟子となって善空坊信念と改名し、承久の乱で佐渡に流された順徳上皇が勅願所として創設した佐渡国殊勝誓願興行寺の開基となったという。その後、信興、了信、信浄、信源の4代を経て衰微し、わずかに笹川門徒によって護持されていた。笹川門徒は、土山坊の名声を頼り、殊勝誓願興行寺の寺号と親鸞聖人真筆の本尊や十字名号を譲ることを申し入れ、本願寺第8世・蓮如(1415~99)はこれを認めたという。かくして、永正14年、佐渡国殊勝誓願興行寺の名跡を継承し、以後、略して勝興寺と名乗るという。
ただし、この伝承の典拠となった『勝興寺古文書集』5・下間頼慶奉書では、頼慶の僧位と花押が異なる点に疑義を残すことが、『富山県史』史料編中世に指摘されている。つまり、『雲龍山勝興寺系譜』に語られる由緒の典拠である古文書は、近世にいたって、勝興寺がその正当性を主張するために作られた偽書である。勝興寺初代たる信念像が制作されたのも勝興寺第19代住職・法薫(1759~1831)の代で、本願寺第17世・法如(1707~89)の裏書がある。しかし、この伝承が事実無根かというとそうではなく、勝興寺の中世における動向を考える上で重要な内容を含んでいるという指摘もある。久保尚文氏は、下間頼慶奉書が偽書であることを認めつつも、信念の伝承について以下のように解釈している。すなわち、15世紀の勝興寺は、本願寺に密着していたわけではなく、むしろ在地勢力との複雑な抗争の中で、加賀の本願寺直属寺院とは距離を置き、佐渡の笹川門徒など、必ずしも本願寺の体制下に取り込まれていなかった在来の真宗系門徒衆の動向と深く関わっていた、という解釈である。
実玄の代には、加賀の本泉寺、光教寺に距離を置き、この間、未組織であった越中在地の念仏信者を取り込み、勝興寺の勢力を拡大したというのである。加賀本泉寺・蓮乗(1446~1504)の真影に関し、加賀・光教寺の顕誓が、「(本泉寺)蓮乗の真影も実玄住持の後、やがて掛けられぬ(ず)、本泉寺へも疎遠の義は愚存には不審おほき事也」と独立の動きに対する不満と解釈できる記述を残している(『富山県史』通史編Ⅱ806頁、『真宗史料集成』第2巻「反故裏書」)のも、この時期の勝興寺における本泉寺・蓮乗に対する扱いがうかがえる。また、享禄4年の大小一揆(享禄の錯乱)に際しては、蓮誓を支持せず、越中衆として独立してゆくことになる。
かくして、実玄の代に、勝興寺の開基は本泉寺・勝如、蓮乗にではなく、佐渡国殊勝誓願興行寺・信念(順徳天皇第3皇子彦成王)に求められた。また、16世紀以降は本願寺に密着し、蓮如上人ゆかりの、越中を代表する大寺院としての地位を占めることになった。
(高田克宏)
【参考文献】『釈尊と親鸞 親鸞編 第4期出品 解説』龍谷大学 龍谷ミュージアム,平成24年(2012)